其ノ三『窮民の巣窟』

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 『二人……とも、ご苦労……だ……やはり……櫻井君……情報通り、だ……』  賑わいも灯りも失せた地下街の深奥にて。蛍が記憶していたエクリプス区資料に記載されていた地下鉄の裏口を隠し通路に、既に先回りした光達と合流した。  無線機からはエクリプス区の外から指令を送る浜本の声が漏れてきた。  政府の管理外にある無電波の区域では、警察端末(ポータブルポリス)は上手く機能しない。  無線インカムも地下へ降りたせいか、壊れたように音声は掠れ、頻繁に途切れている。  しかし、通信障害等の危険も予め想定していた浜本と蛍は卒なく指示を仰いでいく。  『幾つかの目撃情報をまとめた結果、“朧月“は地下街の奥にある隠れ店・『雑貨フィロソフィー』へ行った可能性が高い』  『では作戦通り、各自の配置へ。シミュレーション通りに、各自の配置へ向かってください。朧月が違法薬物への関与も疑われます。大変危険な状態にある可能性も考慮して、迅速かつ慎重に対応してください。いいですね?』  エクリプス区貧民に扮して情報を集めた蛍達は、新たな気がかりとなる"噂"も耳にした。  一か月前の十月七日頃。石井は週に一度の頻度で、エクリプス区へ人目を忍んで来ていた。  その理由を知る鍵は、地下街の最奥で経営されている雑貨店『フィロソフィー』にあると目星を付けた。  石井はフィロソフィーに足繁く通い、店内で"誰か"と会っていた。  石井が人目を忍んで会っていた人物は薬物の売人か、それとも「猟奇殺人事件」に関与する"誰か"か。  どちらにせよ、石井と同様に後ろ暗い事情を抱え、無法地帯の貧困区に身を潜める不審人物に違いない。  先ずは蛍と黒沢、浜本の三人組は素早くも慎重な足取りで、地下街の最奥を突き進む。  やがて、地下商店街の賑わいを疎むような静寂の場所へ辿り着いた。  大きな幾何学(きかがく)模様に割れたウィンドウガラス。  首のもげた裸の白いマネキン。  埃や煤で汚れた衣服や、瓦礫の下敷きになっている百年もの(アンティーク)人形。  他にも食品や煙草の空箱等のゴミも散乱している。  無人の廃店舗ばかりが並ぶ中。濃緑色の看板に銀の塗料で『フィロソフィー』と描かれた古めかしい商店が目に入った。  濃紅色の扉の塗料は所々剥がれ落ち、安っぽい黄金色のドアノブはぐらついている。  硝子窓を覆う白い布のせいで、外からは中の様子は見えない。  さっそく蛍達三人組は、店周辺の廃店の物陰やホームレスと同じ襤褸(ボロ)布に潜めると、石井本人が現れるのを待った。  「(あれは……)」  張り込み開始から三十分後。  噂通り、標的の人物はフィロソフィーの扉の中から姿を現した。  石井の姿は窮乏に喘ぐ不幸な若者らしく、以前よりさらにやつれていた。  捜査中、証明写真でも参照した健康的で爽やかな若者らしさは見る影もない。  悲壮に落ち窪んだ瞳には、獣さながら虚ろであり、爛々と燃えている。  「ここにいたのですね、石井」  夢遊病者さながら緩慢な足取りの石井を前に、事態はついに始動した。  氷刀で首筋をなぞるように冷凛とした声は、石井の鼓膜を震わせた。  蛍達の存在に気付いた途端。死んでいた表情に絶望の色が浮かび、驚愕に眉を深くひそめた。  「っ……!」  蛍達に阻まれた道とは反対方向へ、石井が体を反転させる。  石井は棒切れさながらの足で薄汚れた床を蹴って逃げる。  しかし、目線の先に見えた真っ直ぐな道の左右に隠れた路地の方からも、光と後輩の望月、香坂の刑事官達も待ち構えていた。  四方を囲まれ、退路を完全に断たれた石井は立ち尽くす。  どう足掻いても逃げられないのは一目瞭然。  諦めたのか、荒い呼吸を繰り返している石井はついに両手と膝を床につけた。 .
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