其ノ三『窮民の巣窟』

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 「あー、くそっ。石井の奴、どこへ逃げやがったんだ?」  四方から囲まれた石井が、まさに逃げるとは予測していなかった。  成功を確信した己の慢心に、光は唇を噛み、黒沢は悔しそうに悪態を吐く。  「急いで後を追え。そう遠くへは行けないはずだ」  「ここは、手分けして探しましょう」  悔しさを噛みしめる部下に向かって、浜本は冷静に指示を出し、蛍は次の作戦を提案した。  ただし、唐辛子煙を喰らった者達は視界が回復するまでは待機を余儀なくされる。  蛍と光、黒沢と浜本の刑事官四人だけで、石井を手分けして探すことを決めた。  煙幕玉による目眩しはせいぜい一分未満であるため、直ぐに見つかるだろう。音も影も一切消して隠れる場所も、瞬間移動で遠く逃げる術もない限りは。  蛍達四人は、一本の地下通路に広がる仄闇を真っ直ぐ突き進み、やがて分かれ道に差し迫った。  「一人で大丈夫か?」  「大丈夫。子どもじゃないんだから」  真っ先に蛍を案じる光に、蛍は半分呆れと感謝を込めてつっぱねる。  少女らしい微笑みで光を安心させようとする蛍に、光は切ないものを胸に感じつつも渋々微笑み返した。蛍を案ずる光の瞳には、真夏の日差しと似た温かみが滲み溢れていた。  「何かあったら、『無線インカム』で呼べ」   「お二人さん、仕事中もお熱いこった」  互いを気遣う蛍と光の仲に黒沢は茶々を入れ、浜本は咳払いを零す。  当の光は照れ隠しといわんばかりに、黒沢の頭をやや乱暴に叩いた。  喧嘩するほど仲が良い。  親友同士の微笑ましい光景に、蛍の心は明るくなるのを感じる中、暗い通路を各々で駆け抜けて行く。  しかし、四人の辿ったどの通路を隈なく探しても、石井の影も匂いすら見つからない。  無線インカムでも、こまめに連絡を取り合うが返答は皆同じ。  視力が回復した後で、他の通路の捜索や合流を果たした後輩達も然り。  やがて、蛍は石井が煙玉で撒いて逃げた元の位置へ戻って来た。  「(確か……石井が煙玉を投げた瞬間、音響も時間もあまりに小さくて短かった……)」  蛍の視界に映るのは、何の変哲もない茶色い油汚れがついた乳白色の石壁。  重厚に閉ざされた灰色のシャッター。  無機質な壁とシャッターに挟まれた狭い路地の前に、蛍は一人きり。  石井が逃走した瞬間の状況を、蛍は脳内で鮮明に再現する。  神隠しさながら、まさに煙のように影跡もなく消えた。  石井が、この地下のどこかで今も隠れているのは確かだと仮定する。  人間が普通に走って逃げたのならば、断続的な足音が遠ざかるように響き渡るはず。  しかし、通路が煙幕に満ちていた間、石井の足音を耳に記憶したのはほんの数回程度の短い時間。  ふと、目に留まった錆びたシャッター。頑丈で重いシャッター短時間で、音も立てずにこじ開けて塞ぐのは、人の腕力では到底不可能。ならば。  「まさか、"こんなところ"に……?」  周辺を観察しながら思考を巡らせていると、やがて蛍の慧眼は導き出した。  錆金色の汚れが散った、くすんだ乳白色の壁。  近距離で目を凝らすと、偽大理石の壁には一部、不自然に真新しい白い跡があった。  長方形を立てるように描かれた跡は、汚れや破損が進んだ壁の一部を新しく塗料したように見える、が。  ドクリッと高まる鼓動を感じる中、蛍は目の前の壁へ触れると、渾身の力で押してみた。  ――石特有の重みと同じ音に手のひらと鼓膜が微かに震えた。  双眸を見開く蛍の視界に、縦長い虚闇の穴が入った。 .
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