其ノ三『窮民の巣窟』

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 「なるほど……"隠し戸"があったのなら、道理で」  煙幕で蛍達の目を眩ましている隙に、石井はこの隠し戸の中へ咄嗟に姿を消したのだろう。  闇穴の中は狭かったが、身体を横向きに差し込めば、大人でも滞りなく潜り抜けられた。  隠し通路の内部へ完全に入れば、両手を伸ばせる空間が広がっている。  念のため、戸を閉じてから内部の奥へ足を運び出した。双眸が少しずつ常闇に順応していく蛍は、ポータブルポリスを取り出して眩い灯りを照射させた。  通路の全体構造と先に何か見えないか把握するために。  「(それにしても真っ暗……)」  自分の指差すら見えない深い闇、腐敗水の臭いが充満する空間に内心眉を(ひそ)めた。  それにしても、地下街の壁にこんな「隠し通路」が存在したとは。 『ICT安全装置』の監視の目も政府の介入も皆無な無法地帯・エクリプス区であれば、十分あり得る話だ。  地上での事象しか把握しきれていない我々警察の知らない、違法な闇取引や"被害者なき犯罪"等も繰り広げられているに違いない。  常闇の道を慎重に歩み進めながら、蛍は無線インカムの通信も開いた。  「こちら、櫻井刑事官です。朧月が逃走を図った場所の壁に、隠し通路の戸を発見しました。隠し戸の特徴は……もしもし?」    蛍は通信越しに状況を報告するが、イヤホンからは耳障りなノイズ(雑音)が途切れて響くのみ。  蛍は試しに通信の電波を一度切っては繋げ、声かけを繰り返したが、仲間からの応答は一切ない。  「いつでも、どこでも、誰とでも繋がる」を売りに、ルーナシティの全区域には、通信電波が蜘蛛の巣さながらくまなく張り巡らされている。  反対運動によって政府の介入の阻まれたエクリプス区も例外に漏れないはず。この区内の窮民にも連絡手段やネットゲームなどの娯楽のための伝播を必要とするからだ。  地下街においても、蛍達の端末にはアンテナ一本分の通信電波がギリギリ届いていた。  となれば、この隠し通路に入ったことによる「通信不良」、もしくは……。  冷静に研ぎ澄まされた蛍の心に波紋した"予感"は、間もなくとなった。  改めて、端末の通信状態を表す画面を宙闇に投映させると、蛍の双眸は瞬いた。  最後の砦であった一本の電波アンテナは消え、「圏外」という無情な文字が表示されていた。  「こんな時に限ってまさか――」  "原因不明の機能不全"を起こした端末、と電波障害による通信不良。  一刻を争う状況で、唯一の連絡手段を断たれたと悟った。  蛍は、今ここで自分が取るべき行動の選択を否応なく迫られた。  ここは常闇ばかりで視界も悪く、狭い通路では身動きも難しい。  しかも、逃走犯がいつどこから現れるのか不確かな状況での単独行動は非常に危険だ。  本来は仲間の増援を呼びかけてから、先へ進むべきだが、それも叶わない。  しかし、今こうして手をこまねいている間にも、今度こそ石井は手も届かない遠い危地へ逃亡する。  ここへ来た目的を優先するならば、唯一の痕跡を発見した(自分)が先へ進み、石井を取り押さる。  即時に決断した蛍は片手に拳銃を構え、深海さながら果てなき闇を突き抜けていく。  後で、光達には事情を話してから、しっかり謝ろう。  今までも危険な場所へ単独潜入し、凶悪な犯罪者の制圧・逮捕に成功した。  敏腕刑事官としての経験値の高さと実績こそが、蛍の即時決断と自信の根拠だった。 .
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