其ノ三『窮民の巣窟』

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 「着いた――」  一直線に続いていた細長い通路を、進んでから約数分後。  やがて、赤褐色の煉瓦(れんが)煤色(すすいろ)のコンクリートに覆われた壁や床、毒々しい色彩噴射仏やカビ汚れが灯りに照らされた。  腐敗水の溜まり場から漂っているらしい臭気に淀んだ空間。  蛍は窒息するほどの不快感を堪える。  通路の突き当りで左へ曲がると、道の奥で光源が瞬いているのが見えた。  仄かな橙色(オレンジいろ)の灯に安堵を覚えた。  反面、この先に未知の脅威が待ち受けているのを想像すると、拳銃を握る手へ力が入る。  現時点では、人らしき気配も足音も感じないが、油断は禁物。  慎重な蛍は足音を極力立てずに、光源のもとへ一歩ずつ踏み出した――。  「(……!? 何故、突然ここで?」  突如、灯りを放つ黒い鉄塊と化していた警察端末は連絡の"受信"を伝え出した。  無線インカムのイヤホン越しに響く発信音は、緊迫した蛍の鼓膜を震わせる。  しかし、先程までは通信不能に陥っていた端末の回復、今頃蛍を案じているかもしれない仲間からの連絡受信に躊躇を覚えた。  何故ならば、常闇に投映した画面には、「」と依然表示されているからだ。  電波の遮断された空間にて、しかも警察端末へ繋がるはずのない「」は、仲間ではない"不審者"からの通信を意味する。  目を疑う不可解な現象に、蛍の背中へ冷たい汗が伝う。  しかし、延々と流れる無機質な発信音は蛍を待ち侘び、急かしているような錯覚と共に蛍はようやく応答を押した。  「……もしもし? こちら櫻井刑事官」  怪しい通信へ応答してから待つこと数秒。  しかし、相手側からの返答はない。  もう一度、こちらから何か言うべきかもしれないと考えたが、蛍の唇は凍りついたように動けなかった。  代わりに早鐘を打ち始めた心臓の音は、蛍の本能的な危機感を奏でているよう。  これ以上先は"危険"だ、と。  「聞こえていますか? どちら様ですか」  「――……」  今度は微かな息遣いを耳朶に感じ取れた。  胸の奥で静かに燃える使命感は、不安と躊躇に凍りかけた心を解かした。  今更ここで引き下がることは、自分が許さない。  顔も正体も見えない相手の沈黙を破りにかかろうと、蛍は冷凛と語りかけるのを止めなかった。  「今すぐ名乗りなさい――さもなければ――」  「――……」  淡雪のように冷え澄んだ声が、蛍の鼓膜を優しく震わせた。  冷静さを取り戻したはずの蛍の心は、大きな波紋で激しく波打った。  耳朶から脳髄まで染み渡るような声は、慈悲と同時に"毒"を孕んだ堕天使の誘いのようだった。  しかし、謎の声の主は、蛍の"夢と記憶"の狭間で幾度と繰り返されたものと同じように響いた。  自分が聞き間違うはずはない。  まさか、通信の向こう側には――。     「――『深月(みつき)義兄(にい)さん……?」     かつて昔――蛍が心から敬愛していた優しいの声だった。 ***次回へ続く***
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