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『Interval②』
生まれた瞬間からずっと――"私"の心は常に漠然とした不安へ囚われていた。
いつも、どこにいても、誰といても――私にとって、瞳に映り耳へ響く"全て"が怖くてたまらなかった。
束の間の安息を感じることすら、わたしには許されていなかった――「あの日」までは。
久遠の懐かしき過去――。
幼き日の蛍・櫻井は母親から引き離され、「児童救済相談所」へ連れて行かれた。
実の母親によって虐待・不適切養育を受けていた蛍を"救う"ために。
当時五歳だった蛍には、虐待と保護の経緯を詳しく聞かされる事も理解力も未だなかった。
それでも幼い蛍が辛うじて把握していた歴然たる事実は覚えている。
蛍の母親は憐れな女性――蛍の父親に当たる"夫に捨てられた"事。
たった独りだった母親は密かに産んだ一人娘・蛍を密かに育て、やがて"壊れてしまった"事。
『どうして、あなたがいるの?』
朧げな記憶を辿れば、最初に脳裏へ蘇る後継。
床の上でだらん、と弛緩して伸びた土気色の細長い四肢。
呼吸と逃げ場を失った魚さながらのたうち悶える肢体。
癇癪の野良猫に近しい奇声にすすり泣きの混じった悲鳴。
すっかり"壊れきった"母に対して、娘の蛍は我儘を見せた覚えはない。
子どもにありがちな泣き叫びや甘え、癇癪などで手を煩わせる言動はしていない。
『黙れ! お前なんか……っ』
ただ、母親は蛍の"何もかも"が気に入らなかったのだ。
蛍が声を発する度に、母親は必ず罵声もしくは平手打ちを浴びせてきた。
「お母さん」――そう、何気なく呼んでみた時とか。
蛍が一歩の足音を奏でた時も。
蛍が小さな咳を零した時も。
蛍が鼻を啜り噛んだ時も。
蛍が溜息のような呼吸をした時ですら。
毎日、母は蛍を無我夢中で殴り蹴り続けた。
未成熟な頭部から顔、手と脚ら腹や背中まであらゆる部位を。
ただ、とにかく蛍を"黙らせたい"がために――。
母の内奥に閉じ込めたまま行き場を失った"悲嘆"と"孤独感"は、やがて実娘への憎悪に転換したのだろう。
しかし永遠のように長くも、現実は刹那のように呆気ない泥のような闇と痛みの生活は長続きしなかった。
母親は生命らしい活動すら億劫になったのか、泥沼へ沈んでいくように床を這って眠った。
やがて、母親からは寝息も鼓動も聞こえなくなった。
冬の底なし沼へ沈む様に冷たくなった体で眠る母の隣で、ひたすら蛍は独りで飢え、渇き、凍え、焼けて、耐え続けた。
やがて雪は解けていくのと同じ、蛍の鼓動も壊れかけの心と共に消えかけていた。
母親の後を追うように"終わり"を迎えるのも別に悪くない。
"諦め"は死の影から現実となって体内を巡るのを感じながら、蛍は茫然と考えた。
しかし、母親を弄んだ運命と絶望、死そのものへ共に引きずり下される寸前に、蛍は救出された。
児童救出相談所に保護された蛍には、『養子契約里親制度』が適用された。
実親との法的な繋がりを断ち、一定条件を満たす里親と"新しい家族"になる。
温かな家庭的環境で、子どもの健やかな養育と安心・安全を保障する制度の一つだ。
実母以外に身寄りのいなかった蛍は、「斎賀夫妻」とその息子を含む三人家族の養女として迎えられた。
地元の国立図書館の公務職を勤める斎賀夫妻。
二人ともに温厚で心優しく、仲睦まじい"理想の親"だ、と近所の評判も良かった。
主に図書館での日常業務から子ども達への読み聞かせ、有害図書調査まで。
『子ども若者の心と教育を"本の力"で守ろう活動』で社会貢献をする"人格者"でもあった。
彼らには、十一歳を迎えた立派な息子にも恵まれた。
基本は定時勤務とはいえ、夫妻は共働きで仕事熱心だ。
息子は父母に協力的で、普段から家事全般を自力で立派にこなし、時に仕事の手伝いもしていた。
「紹介するわね、蛍ちゃん。この子は、私達の息子の深月。今日から、あなたの"お義兄さん"になるのよ」
「深月も、妹になる蛍ちゃんと、仲良くしてやってくれ」
深月と初めて瞳を合わせた瞬間、暫し蛍は目を離せなかった。
「初めまして、蛍ちゃん」
冬空のように澄んだ水色を映す、あの綺麗な瞳から。
「僕の名前は、深月」
優しい陽光に煌めく雪のような白銀の髪。
驚くほど色白で、陶器のように滑らかな肌に覆われた温顔。
「僕のことはお義兄さん、と呼んでかまわないからね」
淡い青灰色の冬空を映したような、虚無と透明が共存した不思議な瞳。
まるで、"深淵"を見透かす賢者にのみ灯る気高き智性と無垢な心を垣間見た。
それが蛍の義兄となった「深月・斎賀」との初めての出逢い。
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