其ノ四『深淵の果てに』

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其ノ四『深淵の果てに』

 エクリプス区に巣着いた"無法者の集まり"によって、秘密裏に築かれた闇の地下共同体(コミュニティ)にて。  十一月十七日の夜・二十一時頃。  『――……蛍』  地下よりも深き常闇の秘密路にて。  芯の凍りつきそうな緊迫感を胸に独り先へ進んでいた蛍。  通信不可に陥っていたはずの警察端末(ポータブルポリス)が、圏外状態のまま繋げた受信。  無機質なマイク越しに、蛍の鼓膜と琴線を震わせた謎の通信相手は――。 「――深月、義兄、さん……っ?」  蛍にとって"かけがえのない人"――心を凍てつかせていた蛍が、心の片隅で焦がれ続けた唯一無二の。  『深月(みつき)斎賀(さいが)』本人の声だ。  数年程度ぶりに聴いた義兄の声はマイク越しのせいか否か、昔よりも低い響きで大人びていた。  それでも、雪のように涼しげで柔らかに浸透していくような声色も穏やかな口調も記憶と一寸違わない。  顔も姿すら未だ見えないが、思いがけない形で義兄との再会を果たしたせいか。  蛍の胸は圧倒的な歓喜や安堵を越えて、ただ驚愕に凍りついていた。  『さすが蛍だね。"刑事官"になっただけのことはある。君なら気付いてくれる。僕はそう信じていたよ』  本当に夢でも幻でもない――。  愕然とする蛍に対して、義兄は状況に不相応なくらいごく自然に会話をしている。  まるで昨日会って別れたばかりのように。  「本当に、深月義兄さん、なの……?」  凍てついていた唇からやっと漏れたのは、洪水さながら湧き出る疑問の一つだった。  動揺を隠せない声で語りかける蛍にも深月は『そうだよ』、とごく穏やかに肯いた。  「っ……どうして、義兄さんがこの通信に? まさか、近くにいるの……?」  『ああ。蛍が想像するよりもんだよ』  「っ……なら、どうして。でも無事、なのね? この数年間、私は義兄さんを……っ」  顔も姿も確認できず、音声を変えた偽物の可能性も頭の隅に浮かんだ。  しかし、通信越しに耳朶を撫でる声の主は義兄本人だと確信できた。  詩を詠むように流麗で厳かな語り方も。  意味深だが甘く優しげな声も言い回しも、全て昔のままだ。  薄氷の瞳から思わず安堵の涙が薄っすらと浮かぶ。  幼き頃からひたむきな心で義兄を慕い続け、行方不明になってからも無事と再会を祈り焦がれてきた。  深月本人が無事らしき声を確認できただけでも、声を震わせて歓喜する。  『蛍……君には、心から心配をかけて済まなかった。でも……』  健気な義妹に対して、深月も穏やかに、尚且(なおか)案ずるように微笑んでいる。  通信越しでも義兄の優しさは不思議と伝わってきた。  「それより、どうして義兄さんも"ここ"に? それに、どうして」  一方、『あの夜』に突如姿を消してから数年間、義兄はどこで何をしていたのか。  当然ながら気がかりでたまらない"失踪の理由"。  蛍は狼狽を精一杯抑えながらも、義兄の現状確認も兼ねて問い詰めた。  『数年前の件に関しては、完全に僕自身のと落ち度だった。蛍には悪いことをした、と心から思っている。だが、もう心配いらない。  なんだ。蛍……』  もうすぐ、とは一体何のこと?  深月は静穏な口調でどこか吹雪に撒くような台詞を意味深に囁くばかり。  「待って! 義兄さん! それより今どこにいるの!? 無事なの!? 分かるのなら教えて! 今ここは、とても危険な場所なの! 一刻も早く、ここから逃げて!」  『悪いが、今はそれができない状況に置かれている』  当然、納得のいかない蛍は慌てて問いかけ直す。  このままでは、せっかく声だけでも逢えた義兄が再び離れてしまう予感に恐怖したから。  ただ、雪のように優しくも芯まで冷え渡るような声には、蛍への申し訳なさと切なげか色も混ざっていた。  「まさか、義兄さん……今、誰かに捕まっているの……? 私が今追跡している事件の『残念だが、。僕は今から行かなければならない』  「行くって、一体どこへ!? 義兄さん、教えて……!」  『ごめんよ、蛍。でも、安心して。何があっても、から――』  待って――必死に手を伸ばすように出かけた呼びかけは、虚しく宙へ消えた。  深月は小さな謝罪と共に謎の"約束"を言い残すと、通信を一方的に切った。  通話終了の電子音は延々と虚しく響いてきた。  蛍は暫し呆然と立ち尽くした。 .
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