其ノ四『深淵の果てに』

2/9
前へ
/367ページ
次へ
 "また会おう、蛍――"  今まさに"怪物の巣窟"へ単独で足を踏み入れている最中の蛍を気遣っていた。  さらに蛍の心に凍り閉ざしてきた"望み"を叶える、と告げた優しい台詞――「再会の約束」だけが今の蛍に灯る唯一の"希望"だった。  数年前に失踪した義兄がエクリプス区の、しかも最奥部に身を潜めている理由も気になるが、もう一つの"懸念"もある。  如何なる手段を用いて、義兄は警察端末と通信したのか。  本来は、警察関係者と登録認可されたとしか繋がらない特殊な端末へ、しかも圏外のまま。  なりすましや悪用防止のために、指紋や音声、顔貌などの生体認証も主流となった通信端末機。  他人が電波に関係なく自由自在に使用する技術も人間も、ハッカーやクラッカーなどのごく少数に限られてくる。  結局、義兄は今どのような状況に置かれ、蛍へ何を伝えようとしていたのか。  情報も判断材料も圧倒的に不足している。  蛍が辛うじて理解できたのは、義兄自身も非常に危険な状況にある。  最悪の可能性として、義兄は石井かその共犯関係者と既に遭遇し、囚われの身にある。  義兄からの予期せぬ通信は、決死の覚悟で外部へ救助を求める連絡をする手段を得た。  そして、偶然にも蛍の警察端末と繋がったが、敵に勘付かれる前に通信を切って逃走を図った。  さすれば、深月の「君なら気付いてくれる」という謎の台詞も、時間を急ぐような様子も腑に落ちる。  深月の救出を考慮すれば、事は一刻を争う()つ、慎重に運ばなければならない。  しかし、蛍にとって唯一大切な家族と、ようやく再会を果たせる。  すると、らしくもなく逸る想いと焦燥に胸を燃やす蛍は、深淵の闇路へ躊躇なく踏み出した。  「、女――今すぐ死にたくなければな」  しまった――いつのまに。  義兄との会話へ集中していたうえ、感情的になって奏でた話し声のせいか。  蛍はこちらへ密かに迫っていた背後の気配に隙を突かれた。  咄嗟に振り返った蛍だが、背後へ銃口を向けることすら叶わなかった。  「んん――っ!」  気配の主は蛍を素早く羽交い締めしてきた。  不意に俯けば、常闇に慣れた視界、胸部と頸部へ伝わる腕力で察知できた。  獰猛なゴリラを彷彿させる筋肉隆々な太腕。  耳元にかかる邪悪な息遣いに濡れた声。  蛍は反射的に身を捩らせて抵抗するが、全ては遅かった。  もう片手のひらに隠した布を彼女の鼻と口へきつく押し当てた。  鼻を突く独特で甘い香りに、蛍は嗅がされた薬品の正体を瞬時に悟った。  蛍の体と意識は重力無きマネキンさながら脱力していく。  最後の砦だった警察端末も拳銃も手から床へと虚しく落ちた。  ごめんなさい……光……黒沢刑事官……みんな……どうか、気付いて……!   己の不覚と無力感に打ちのめされるながら沈んでいく意識の中、蛍は思う。  事件の解決と真相の解明、恐らく石井達共犯者を影で操る黒幕へに辿り着こう躍起になる仲間達の健闘  深月義兄さん……どうか、あなただけでも無事で……っ。  己の最期、もしくは待ち受ける"地獄"を悟った蛍は心の底から祈り叫ぶ。  血の繋がりはなくとも"確かな絆"で結ばれていた義兄の無事を――。  *
/367ページ

最初のコメントを投稿しよう!

35人が本棚に入れています
本棚に追加