其ノ四『深淵の果てに』

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 十七日・二十一時半頃。  逃亡した石井被疑者を手分けして追っていた黒沢弓弦は、早い段階で薄々勘付いていた。  浜本リーダーと蛍の言う通り、石井はかなり近い場所へ逃げ隠れていることに。  刑事官随一の鋭敏な聴力を誇る黒沢も聞き逃さなかった。  煙玉を目眩しに逃走した石井の足音が、わずか数秒足らずで消えた事に加え、「」という妙な物音も。  とはいえ、黒沢にとっても誤算だったのは、薄い壁の向こう側に"秘密の空間"が存在していたことだ。  消えた石井の姿を探し求めて慌てる自分達を、奴は壁の内側から息を潜めてほくそ笑んでいたに違いない。  まさに"灯台下暗し"だな。  途中で違和感を抑えきれなくなった黒沢は、無人化していた元の位置へ引き返していた。  手始めに黒沢の慧眼は、鋼鉄のシャッターと廃店の境に張られた壁を観察した。  くすんだ乳白色の偽大理石に浮かぶ不自然な純白の長方形の跡――"隠し通路"への入り口を発見した。  己の直感の赴くままに、壁を前方へ力強く押してみた。  予測通り、陥没した壁の向こう側には果て無き闇の通路が続いていた。  黒沢は獲物を目前にした猛獣の目付きで口角を上げた。  「さすがはか? 小賢しい場所に逃げ込たな。にしても、(くれー)し、ひでー臭いだな。くそっ。電波も繋がらねー」  もしくは、こんな時に限って"通信不良(故障)"か?  黒沢は、口汚く悪態を吐きながら、電波の失せた警察端末から、灯りをかざして通路へ入った。  通信不能へ陥った無能な端末と無線インカムに加え、鼻を突き刺す汚水臭が充満する常闇は黒沢を苛立たせる。  たくっ、面倒くせー場所に逃げ込みやがって。  反吐が出そうな悪臭付き暗闇を独りで歩くとかどういう拷問だ。  黒沢の卓越した野生並みの直感力の資本である「超五感」。 「感覚過敏性」とも呼べる能力は頼りになる一方、エクリプス区のように独特の悪臭といったあらゆる刺激を人一倍感じ取ってしまうのは拷問にも等しい。  真っ暗闇に浮かぶ灯りは眩い刃となって瞳を苛む。  害虫やカビ菌が繁殖しまくった汚臭。  靴底の地面や皮膚に触れる空気越しにも伝わってくる不快な湿り気。  常人には"ちょっと臭い公衆トイレ"、しかし黒沢には腐敗した魚類と汚泥(ヘドロ)の海くらいの雲泥の差だ。  吐き気と眩暈すら催しそうな黒沢は、懐にあった電子タバコで嗅覚を誤魔化そうとした。  甘いココアの芳香に溶けた紫煙を、鼻孔から肺の奥まで思い切り吸い込む。  疲弊していた黒沢の心から鼻と肺の奥は、慰め程度に甘く浄化されていくよう。  「(タバコはうめぇ。電子タバコが一般的となった今じゃ、旧時代とはまた違う味わいがある。そういや蛍はだったな)」  甘く芳しいココアの香りは、親友が惚れ込んでいる恋人・蛍の顔を不意に思い出させた。  蛍は黒沢の後輩でありながらも、霜月班の長として彼の上司という不思議な立場にある。  出世には毛先も関心のない黒沢だが、妹分に先を越された気分になる。  普段は氷の女神みたいに凛としていている蛍。  出逢い当初の彼女は、一度も笑いも軽口も零さない、"心臓まで凍てついたような"冷徹さが印象に残っている。  しかし、親友の光が蛍を気にしていると知った時、好奇心の湧いた黒沢は"近寄りがたい蛍"との接触を試みた。  当時の蛍は今と同じ生真面目で淡々としか反応しかなかったが。  しかし、こちらが粘り強く(というか懲りずに)話しかけ続けていく内に知った。  黒沢も光も好むこの煙草と同じ、甘く芳しいココアが好物なのだ、と。  今でも鮮明に思い出せる。  初めてココアを差し出した際、澄ましていた蛍の頬は仄かに染まり、嬉しそうに緩んでいた。  "あの蛍"は本当に可愛いげがあった。  鋭利な氷柱のような顔の下には、淡雪さながらの儚さ、年相応の"寂しさ"を秘めていると察した。  普段の任務においても信頼はしていたが、初めて蛍へ親近感と好意も抱いた。  恋人である光の親友でもあり、中を取り持った黒沢にも、やがて蛍は気を許してくれたと思う。  今の黒沢にとっての蛍は、出来の悪い兄を引っ張る真面目な妹のようでもあり、彼自身の心を和ませる。 .
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