其ノ四『深淵の果てに』

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 誰かに呼ばれている――。  ――……! ……! ……たる……! 蛍……。  一瞬、最も鮮やかな記憶に浮かんでは霞に消えた"あの人"かと錯覚した。  「――蛍……! 聞こえているか……? 俺が分かるか……!?」  あまりにも悲痛な呼び声に鼓膜を激しく揺さぶられた蛍は即座に悟った。  「……ひ……かる……?」  虚白の微睡みへ沈んでいた蛍の意識は、光の呼び声によって現実世界へ"生還"した。  意識は未だ白く霞みにかかり、体は沼のように重く怠い。  重い(まぶた)へ力を込めて薄っすらと上げた蛍の視界へ真っ先に入ったのは――医療室らしき真っ白い壁と天井。鼻を突く消毒液の匂い。  そして、胸を引き裂かれたような悲痛の面持ちへ、安堵の色を浮かべた光の姿だった。  「……私……? どうなって」  「馬鹿野郎! 一人で無茶するなとあれほど言っただろ! 心配かけやがって!」  自分の現状を全て把握しきる間も与えられず。  目覚めた蛍の体を光は痛いほど強く掻き抱く。  光の広い胸のぬくもり、懐かしい彼の匂い。  力強い両腕から微かに伝わってくる震え。  ぶっきらぼうで少々乱暴な物言いだが、光らしい不器用な愛情と優しさが滲み出ている。  「光……心配かけて、ごめんなさい」  きっと、心配性で優しい光のことだ。  医務室に眠る自分の意識が戻るまでの間、恐怖と焦燥、寂しさに独り耐えながら、健気に傍で待っていてくれたのだ。  蛍を抱きしめて離さない光に対し、蛍は無茶を冒した反省と小さな罪悪感が湧いた。  同時にもう一度生きて光と会えたことへの深い安堵に、蛍の瞳の奥も自然と熱くなる。  「でも、、無事で……俺は……っ」  一方、徐々に明瞭へ戻りつつある頭の中、蛍は意識を奪われた直前の記憶を辿る。  エクリプス区の地下で、私は壁の奥に隠されていた秘密の空間――石井容疑者が逃走経路に使ったと思しき闇の通路を潜っていた。  しかし途中、通信不良にあったはずの警察端末へ行方不明だったはずの「深月義兄さん」から、突如謎の通信が入った。  予想外の事態に動揺しながらも、蛍は状況を確認しようとした。  しかし、義兄は蛍を案じながらも意味深な台詞を残して通信を一方的に切って、それから――。  剛腕の感触と不愉快な低い声しか記憶に残っていないが――の怪しい輩に背後から襲われ――そこから記憶は途切れている。  危険な巣窟の中枢にて、正体不明の怪しい男に身動きも意識も封じられた瞬間。  蛍は無念と共に己の"終わり"を確信していた。  しかし、現実に蛍はルーナ警察署内の医療室の寝台にいる。  幸い、体には目立った異常も外傷もないらしい。  蛍の恋人である光も何事もなかったかのように傍にいる。  まさに、隠し通路での不可解な一連の出来事は全て"悪夢"だったのか、と薄気味悪い錯覚すら覚えた。  「本当に心配したんだ、蛍。お前、眠っていたんだ。医者は、"薬物"の影響だと言っていたが」  蛍を抱きしめたままの光が不意に零した言葉に、蛍は軽い衝撃を覚えた。  光が医師から聞いた話曰く。  恐らく隠し通路で襲ってきた男が嗅がせた薬物の影響で、私は丸三日間も眠っていた。  薬物の正体は、最近になって一般市民の間にも出回っている『安眠薬(ドラッグ)』の類らしい。  蛍の意識を奪ったのは、短期間の少量であれば人体への悪影響は少ないが、多量服用だと軽く吸うだけで瞬時に深い眠りへ引き摺り込まれる「カモマイルC」のと推定されている。  「……そういえば、光。はどうなったの? それに私はあの時」  エクリプス区潜入から既に三日も経った現実を呑み込めた蛍は、"あの後"の石井の現状を問う。  途端、光は口を(つぐ)んで瞳を伏せた。  口下手な光が言葉を逡巡しているというよりも、答えることを躊躇(ちゅうちょ)しているのを窺えた。  「光……私は大丈夫だから、おしえて? 私の意識のない間に、一体何が起こって……「詳細はから説明しよう」 .
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