其ノ四『深淵の果てに』

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 蛍と光の二人きりで仕切られていた医務室へ粛然と入室してきたのは、浜本副部長だった。  再会を喜び合う二人を気遣ったのか、直ぐ外で待機していたのだろう。  今回の協働捜査班の責任者(リーダー)でもある浜本。  彼には「潜入捜査」で事件(トラブル)に巻き込まれた蛍からの報告を聴き取り、事件の進捗状況を説明する義務と責務がある。  「藤堂刑事官は、暫し席を外してくれ」  「だが……っ」  「これは"命令"だ」  伊達眼鏡越しの瞳には普段と変わらない理知的な光が宿っている。  しかし、一文字に固く結んだ唇と鋭い眼差しから、浜本自身もやるせなさを堪えているのが窺えた。  命令だ、と厳しい口調で促す様子から、彼は今の光の心中を察しているからこそ。  浜本なりの気遣いを察した蛍は真剣な眼差しで光へ「大丈夫だから」と微笑む。最初は難色を示していた光は、後ろ髪を引かれる様子で退席した。  「具合の方はどうだ? 櫻井刑事官」  浜本と二人残された瞬間、医務室に張り詰めた空気から、蛍は既に胸騒ぎを覚えた。  寝台で上肢を起こす蛍に対して浜本の第一声は、彼女の体調を案ずる事務的な声だった。  「大丈夫です」、と冷静に答えた蛍に、浜本は珍しく柔らかな色、というか安堵を浮かべていた。  それでも蛍の眼差しからは不安の色も胸騒ぎも消えなかった。  先程退室した光だけでなく、目の前の浜本からも"事件の話題"へ触れる事自体を躊躇して見えるからだ。  当の浜本は慣れた手付きで、自身の警察端末を操作している。  事件の報告書を検索しているのだろう。  「浜本刑事官。失礼ながらお伺いたいのですが。あの後、何かあったのですか。『朧月』……石井は、捕まえることはできたのですか」  「石井の件も説明しよう。だが、その前にお前本人から直接訊きたい。大体のあらましは、お前を発見した藤堂と望月達からも聞いたが、"あの隠し通路"で何を見た?」  猛烈な胸騒ぎと焦燥のせいか、冷静な蛍らしからぬ催促に、浜本は神妙な眼差しを向けてきた。  さらに物申したい事があるらしく、今までにないほど眉を深く(ひそ)めている浜本から咎めるような気配も感じた。  「それに……冷静沈着な櫻井刑事官あろうものが、」  「……事を急いていたとはいえ、"単独行動"へ走ったのは、捜査の合理性を欠いた軽率な判断でした。誠に申し訳ありません」  「まったくだ。まるで、"死に急ぐように"単独で無茶ばかりの新人時代へ戻ってしまったのかと心配したぞ」  「返す言葉もありません」  今度こそ石井を逃がさない執念は仲間も同じだった。  とはいえ、蛍は仲間との連絡手段と安全の確保を怠った挙句、独走行為で自らを危険へ晒した。  幸いにも、奇跡的に無傷で帰還が叶った理由と経緯に謎は残るが。  しかし結果として、蛍は仲間へ多大な心配と迷惑をかけてしまった。  今回ばかりは己の力を過信した判断ミスを猛省した。  「まあ、いい。冷静沈着なお前のことだから、単独追跡を選んだ"それなりの理由"があるのだろうな?」  氷のように凛とした仮面を崩さない蛍の珍しく沈んだ表情。  非の打ち所がない刑事官と署内で謳われる蛍の落ち込んだ姿など、滅多に見れるものではない。  浜本は不謹慎ながら芽生えた親近感を誤魔化すように、壮大な溜息を露骨に零した。  しかし、厳格な眼差しと呆れた口調には相手をさりげなく案じる色を感じるせいか。  蛍は申し訳なさこそあれ、不思議と胸が温かくなった。  刑事部随一"厳しい"副部長は、部下の失態や非礼へ強く苦言し、激励しつつも気にかけてくれる"良き上司"だから。  「ではまず、石井に関してだが……"二つだけ"伝えておかなければならないことがある――」  さっそく本題である情報の報告と共有に入る際。  浜本は先程まで心に堰き止めていたモノを零したような重苦しい表情へ変わった。  不穏な予感に身構えた蛍を前に、浜本は意を決した眼差しで毅然と告げた。 .
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