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其ノ一『猟奇事件の暗影に』
二〇六〇年・十一月十四日――ICTの世界的発展とグローバリゼーションの影響によって、一握りの世界は新時代の"黎明期"を迎えようとしていた。
莫大な予算と国財を投げ打った政府の試み――高度なICTに支えられた"鉄壁の監視警備の全国導入"を、二〇八〇年までに完了させる『日昇国・ICT化計画』。
その一端を担うのは、日昇国の最東北に位置する第二ICT都市『ルーナシティ』である。
温室で育った豊かな自然に、欧風の美しい街並み。
古風な景観へ器用に融け込んだ交通・通信インフラの充実性は、市街の豊かさと国の発展を匂わせる。
しかし、八年目の秋を迎えたルーナシティは平和でありながらも、活き活きとした色彩に欠けて見える。
「(懐かしい夢を見ていた気がする)」
久遠へ置きざりにした朧げな記憶の断片。
清らかな白花から甘く匂い立つような優しさ。
それでいて切ない疼きに胸の奥が波打つ。
花の香りは鮮明だが、その名はあやふやで思い出せない感覚と似ている。
秋空に向かってコスモスが微笑む花壇に囲まれた一軒の高層マンション。
中階の一室に住む一人の若い"女性"は、蒼然とした街並みを窓硝子越しに眺めながら物思いに耽る。
今年で二十四歳の秋を迎える『蛍・櫻井』。
彼女は類稀なる才気に溢れたエリートとして、職場では周囲に一目置かれる存在だ。
一見華奢で儚げな美貌に反し、蛍は男性にも引けを取らない武術を嗜み、抜群の運動神経を誇る。
さらに歴代最優秀の成績で採用試験に合格し、合理的で即断に立ち回る怜悧な知性も持つ。
しかし、非の打ち所がないエリートの心には、正体不明の空虚感と焦燥に|燻(くすぶ》っている。
この数年の間は常にそんな調子だ。
もっと別の明快な表現をすれば――いつも、蛍は"何か"が欠けている。
超難関試験を頂点で合格し、念願だった警察官になる夢を叶えたにも関わらず。
新人で数少ない女警察官でありながら、周囲の羨望や風当たりをものともせずに任務へ勤しみ、多くの功績を讃えられても。
どこか心此処に在らずな蛍の瞳は、氷のように冷え渡っている。
それでも蛍は艶やかな森緑色の寝台で、普段通りの出勤前の朝を迎える。
普段の蛍であれば、儚げに澄んだ瞳が覚醒した時点で即座に体を起こす。
睡魔を知らない機械さながらの機敏さで、身支度と出勤の準備を整えるはず――が、今日に限っては違った。
"妙な夢"のせいか、それとも昨夜の"行為"のせいか、珍しく全身は怠い。蛍は頭を抱えながら自嘲した。
昨夜の抱擁による甘い軋みを鳴らす体に鞭打って、緩慢な動きで起き上がろうとした。
「おはよう、蛍。珍しいな。お前がまだ寝ていたとは。珈琲飲むか?」
森緑色の布団を纏ったまま呆けていた蛍を迎えたのは、同棲中の恋人・『光・藤堂』。
清潔で整然とした光の短髪を視界に捉えると、蛍の心は自然と和む。
光の髪は黒い柴犬のように手触りが柔らかくて心地よい。
誠実さが美として模られた精悍な顔立ち。
硬派な印象を与えるムスッと固く結ばれた端正な唇に、嘘偽りのない真っ直ぐな眼差し。
不愛想な青年らしい光の顔と佇まいを見ていると、蛍は心が澄み渡るような安堵に満たされる。
虚ろに渇いていた蛍の心へ、日向溶けの雪水さながら温かな潤いが染み渡ったのはここ一年最近――きっと、"光の存在"が影響している。
「おはよう、光。いただくわ。ありがとう。ちょっとね……」
寡黙、厳しくて怖そう、不愛想。
光と初めて顔を合わせた多数の人間が抱く印象だ。
実際の彼は、確かにぶっきらぼうな雰囲気かつ、生真面目で厳しい言動も目立つ。
一方でいかに難航する任務にも挫けずにやり遂げる正義感と忍耐強さ、犯罪者を含むいかなる相手にも真摯に向き合う誠実さを持つ"立派な刑事官"だ。
「大丈夫か? 怖い夢でも見たのか。それとも、昨夜は無理をさせてしまったか」
こんな何気ない台詞からも、光の不器用な優しさを垣間見れた。
光から"告白"を受けた蛍が、彼と付き合い初めてから一年以上経つ。
『ここに来てから、お前のことがずっと気になっていた。好きだ。どうか、俺と付き合ってほしい』
まるで台本の棒読みのように抑揚のない告白の常套句。
同僚であり、刑事歴は一年以上先輩でもある光からの思わぬ告白。
当時の蛍にとっては初めてのことで戸惑いもした。
けれど、光の緊張に強張った表情、居た堪れなさに耐えてこちらを真っ直ぐ見つめる瞳の色から、彼の精一杯の勇気と不器用な愛情は伝わった。
二人の時間を過ごしていく内に、蛍は光の真面目で不器用な心優しい人柄に惹かれた。
漠然とした空虚が広がっていた蛍の心には、光との穏やかな同棲生活もあって、温かな彩りを取り戻しつつある気がした。
真面目で誠実な光のことだ。
今後の人生を蛍と共に歩みたい。
そんな風に"将来への誓い"についても、真剣に考えてくれていることは察しに容易い。
ただし、時間と時期といったものが光にはもう少し必要であること。
蛍は光を尊重したいし、彼にならいつ求められても構わない。
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