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「ううん、そうじゃないの。少しだけ、懐かしい夢を見ていたの。内容は忘れちゃったけど。」
恋人である光もまた、太陽のような気持ちを胸に燃やして"蛍"を優しく見つめる。
強靭な筋力を秘めた華奢な体躯。
繊細そうに息づく肩で揺れる濡れ烏の髪は、無意識に触れたくなるほど美しくて柔らかい。
鉱石を削ったような白い顔と端麗な目鼻立ち。
薄紅色の花びらみたいな唇。
氷人形さながら均整のとれた肢体からすらりと伸びる四肢。
しかし、危険対応時の蛍のは、大地から空へ舞う黒鳥さながら流麗に動く。
何よりも周囲を惹きつけてやまないのは、彼女の"瞳"だ。
黒水晶に澄んだ瞳には、少女のように儚げな可憐さ、女の艶やかな悲哀が溶け合う。
我ながら陳腐で大袈裟な表現だ。
しかし、そのくらい蛍の全ては比類なき美しさと才気に香り立つ。
「そうか、ならいい。朝食は俺が準備した。ゆっくり起きたらいい」
蛍を見下ろすのは、ぶっきらぼうで優しい双眸。
しかし、その奥には温かなものばかりではなく光自身の"不安"も、醜く浅ましい感情もあり、蛍はどこまで見透かしているのか。
「ありがとう、光。じゃあ、お言葉に甘えて」
普段はそんなことを微塵も思わせない笑顔で彼女なりに甘えてくれる瞬間に限り、光の不安は杞憂だと安心できる。
光は蛍の艶やかな黒髪を雑に撫でる。
そっと触れるような口付けをしてから、何事もなかったかのように足速に部屋を出た。
光なりの照れ隠しなのは一目瞭然。
清々しい目覚めを喚起させる珈琲のほろ苦い芳香。
無骨な手の温もりと優しい口付けの余韻。
蛍は心が満ち足りていく中で身支度を整え始めた。
「ニュース、点けてもいいか?」
「うん、私も見たい」
自治体から派遣される宅配ロボットの朝食セットは、既に光が食卓に並べてくれた。
芳しいバターと甘く溶け合うメープルシロップのフレンチトーストにチーズ目玉焼き。
瑞々しくシャキッとしたレタスサラダ。
椅子に腰掛けている光は、寛いだ様子で熱い珈琲を胃へ注ぎこむ。
不意に目の合った蛍が微笑むと、光は照れ隠しからか、慣れた片手動作でリモコンを操作した。
紙のように薄いテレビは淡々とした機械音と共に点滅する。
しかし、液晶画面に浮かんだ"不穏な見出し"、険しい面持ちのニュースキャスターの声に、思わず二人は息を呑んだ。
『福祉省・子ども若者部門の総大臣が変死体で発見~猟奇殺人事件の行方は?~』
日昇国の政府内に属する幾つかの省庁。
その中の複数部門で枝分かれした機関は、主に経済安定から国民の生活保障、環境保護等を担う。
『福祉省』は、国民の健やかな生活の保障、その脅威となるあらゆる事故や危険に対応する計画と施策に携わる。
さらにそこから、子ども・若者部門に高齢者部門、医療保健部門、救貧部門、一般生活部門へと細分化している。
十一月一日のルーナシティ・ニュームーン区の公園にて、福祉省の子ども若者部門を統べる「幸助・小笠原大臣」の無残な"変死体"が発見されたらしい。
「……ところで、犯人の正体と行方は掴めると思う? 確か、あなたの所属する葉月班の案件よね?」
「否、今は鑑識部による現場検証の結果待ちの只中だ。俺達も疑わしい『朧月』と場所を探ってはいるが、どいつも『白月』ばかりだ。足掛かりすら未だ掴めない」
大臣殺害事件は、実は光のいる葉月班の所轄だ。事件捜査の進捗状況を訊かれた光は、苦々しい表情を浮かべた。事件の凄惨さに、光は内心忸怩たる思いだ。
冷徹に聞こえる光の声には、強い悔しさと怒りが滲み出ている。
ちなみに、二人の間で交わされた『月の言葉』は、彼らの職場・ルーナシティ警察で使用される独自の隠語だ。
事件と捜査に関する情報管理と私事、個人情報の守備義務に配慮するためだ。
『朧月』は被疑者や手がかり。
『白月』は無実らしき被疑者。
そして『黒月』は証拠や逮捕、送検によってほぼ"黒"と断定された真犯人。
「そう。それにしても、嫌な事件ね」
「まったくだ。これほど惨い行為を為せる『黒月』の人間性を疑うぜ」
苦々しい口ぶりから、事件の捜査が難航していることは容易に理解した。
光の胸に燻る憤慨と悔しさを冷静に受け止める蛍は、己の予感が的中するのを感じた。
蛍と光が所持する警察専用の携帯通信機器・通称『ポータブルポリス』へ、職場からの緊急報告が届いた。
夜色に統一された手のひらサイズの通信機器の画面を、二人は秒速でタップした。
通信機の小さな灯りから虚空へ照射された、三次元映像画面に表示された内容を確認した直後。
二人は食器もそのままで、即座に自宅マンションを出た。
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