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危うく余計なことを話してしまうところだった。望と最後に話したのが自分だと知られると絶対に面倒なことになる。
鼓動が聞こえるくらいに心臓が早く、大きく鳴っている。肩で息をし、喉の焼きつくような痛みを感じながら、すべてしゃべってしまう前に我に返ってよかったと思った。同時に、ちゃんとクラスメートと話せている自分に驚きもしていた。里菜が話しやすい人だったのがよかったのかもしれない。
あてもなく歩いていると体育館の裏にたどり着いた。普段来ることがない裏道から見る風景はどこか新鮮だ。用務員の斎藤が花壇の手入れをしている。気づかれないうちに引き返そうとしたとき、体育館の陰から声が聞こえてきた。
「上田センパイ、おごってくださいよー」
「かわいいコウハイの頼み聞いてくださいよー」
「あ、与謝野晶子だっけ」
「バカ、紫式部だろ」
「5千円なんて、センパイ金持ちー。でももっと欲しいな。明日はもっと持って来てね」
絶対に関わらない方がよいと思ったが、無視もできず覗いてみると運動部員だった。何人か知っている人がいるからおそらく2年生だ。先輩と呼ばれる上田という人は、同じ部の3年生だろう。しかし3年生ならばもう部活は引退しているはず。彼はわざわざ呼び出されてここにいるのだ。
「うっ。か、返して」
今日は変なことに巻き込まれる日なのかもしれない。少し考えて、ここは他人に任せてしまうことにした。
「あの」
用務員の斎藤に助けを求める。
「あれ、どうした。2年1組の相沢くん」
この用務員のおじさんは、生徒全員の顔と名前と、クラスまで覚えていることで有名だった。
「体育館で、カツアゲが……」
言い終わる前に、表情を険しくさせて花壇から飛び出す。
「お前らぁ。何やっとる」
「おい、やべぇ、おっさんだ。行くぞ」
やつらは金を巻き上げるだけでは物足りず、ずいぶん暴力を加えたようだ。心配だったが、まだ気を抜けない。拓海は用心してその場を動かなかった。
「バスケットボール部3年生の上田くんだね。大丈夫かい」
「なんでもないです。部活の後輩とちょっと話していただけですから」
「あ、上田くん」
様子を見ていたことは分かっているだろうに、それでもごまかして、ふらふらした足どりで帰って行く。今までにも同じようなことが何度もあったのだろうか。
上田を見送って、斎藤は拓海の方へ戻ってくる。
「逃げ足の速い奴らだな。顔までは見られなかったよ」
「あの、僕もう帰ってもいいですか」
「ああ、助かったよ。ありがとう」
ちらっと見ただけだが、あのバスケ部員の中に同じクラスの柴田がいたような気がした。髪色が明るく目立つから見間違いではないと思う。拓海の斜め後ろの席で、いつも寝るかサボるかしている。部活に入っているとは意外だ。
やっとのことで家に着くと拓海はもうくたくたで、このまま永遠に眠り続けてしまいたいとさえ思った。しかし災難はこれだけでは終わらない。
「おかえり」
「母さん。どうしたの」
「ちょっと体調が悪くて早退してきたのよ。悪いけど、夕飯の準備とか全部自分でやってくれる?」
毎日夜遅くまで仕事をしてくるのに、どうして息子が疲れて帰って来たときに限って家にいるのか。
「俺のことは気にしないで。適当にやるから」
母が寝室に入っていくのを見届けて、自分も部屋へ行く。
自分が覚えている限りでは、拓海には反抗期というものがなかった。そもそも、そういう時期にさしかかる前から母には反抗的な気持ちを抱いていたからだ。
彼女の世界は自分中心に回っている。仕事が忙しいのは分かるが、気持ちに余裕があるときはひとりっ子の拓海に必要以上に干渉し、切羽つまっているときは扱いがぞんざいになる。別にどちらがいいということはない。ただ、感情に振り回されている人を見るのが苦手だ。
今だって、夕飯がないなら帰って来る前に連絡を寄越してほしかった。早く回復して、明日には復帰しなければと仕事の都合ばかり考えているからそうなる。
今日何度目かのため息。人生の中で、とことんついていない瞬間があるとすれば、それは間違いなく今日だと思った。
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