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第69話 遠江(とおとうみ)
金色の鍵の記憶も少し薄らいだ6月、琵琶湖の畔、淡海音楽ホールで、北上聖のピアノリサイタルが行われていた。海東楽器専門学校の鑑賞推薦行事でもあり、渚はぶり返した重い気持ちを抱えて、奏と鮎に挟まれて、観客席で聴いている。
お母さん、ずっとリサイタルで忙しかったんやろか。ここがツアーの最後やってパンフレットに書いてたし。
渚のタイマーはあの日に戻っている。1曲目は落ち着かないまま、耳元を流れて行った。2曲目との間に聖がマイクを取った。
「最初にラフマニノフの代表曲の一つ、『パガニーニの主題による狂詩曲』をお聴き頂きました。馴染みのフレーズがあったのではないでしょうか。次も大抵の方が聞いた事があると仰る、ドビュッシーの代表的な組曲です。この中に『月の光』という美しい調べの曲があります。ドビュッシーがどんな情景を描いてこの曲を作ったのか、いろんな説があるようですが、私はこの曲を聴く度に、琵琶湖の真っ暗な湖面に映る月の光を思い出します」
聖は会場を見回し、続ける。
「さて、その琵琶湖の畔のこの会場の名前、淡い海と書いて『おうみ』と読みますね。一般的に『おうみ』と言えば近い江と書きますが、大昔は淡い海の字を使ったそうです。当時、奈良の都に近かったことから、淡い海に『近い』の文字がついて『近淡海』、つまり近くの淡水の海という事でしょうか。これが変わって今でも使われる『近江』となったそうです。反対に、遠い淡水の海という事で、今の静岡県の浜名湖付近が『遠淡海』と呼ばれ、そして現在お馴染みの『遠江』になったとか。歴史って思ったより単純だなあと、このお話を聞いて私は思いました。脱線しましたが、皆さまもそれぞれの月の情景を心に描いてお聴き下さい」
近くの淡海と遠くの淡海。渚は思い浮かべた。二つの淡海ってまるでお母さんとお父さんみたいや。遠くの淡海があの浜名湖やなんて…。あたしと空もそんな風になれるかな。あたしと空の子どももそんな風に思ってくれるかな。
あ、いやいや…、早過ぎるって! 何考えてるんやろ、あたし。
渚が一人で照れている間に次の曲はどんどん進んでいた。クロード・ドビュッシーのベルガマスク組曲。解説の通り、『月の光』を含む4曲からなるピアノ独奏曲だ。
あかん、好きな曲やし、ちゃんと聴かんと。そう、今はお母さんとちゃう。一人のピアニスト・北上聖や。渚は自分に言い聞かせながら耳を澄ませた。演奏は3番目の『月の光』になっている。聖の腕がしなやかに鍵盤の上を舞い始める。
!!
渚はハッとした。また57Fや。無理して弾いたはる…。『月の光』にとっても重要な57Fの音。聖はさり気なくテクニックでカバーしている。渚は手を組み合わせて演奏の無事を祈った。お母さん…頑張って。
リサイタルはこの後休憩に入った。渚は奏に囁いた。
「57Fのキー、音がぼやけてるね。弾き方、調整したはるけど」
「え? 全然判んない。57Fって前のシンメルの時と同じですよね」
渚は肯く。奏は呑気に続けた。
「それ判るのって渚ちゃんくらいですよ。流石は渚ちゃんだし、自然にカバーして演奏するって、流石は渚ちゃんのお母さんですよね」
反対の隣に座っている鮎はそれを聞いて驚いた。
「お母さん?」
奏が慌てて手で口を押さえる。鮎が奏を見た。
「奏、どういうこと?」
「あー、渚ちゃん、言っていい? 鮎ちゃんには隠せないよー」
小さく肯いた渚を見て、奏は渚を挟んで身を乗り出した。
「あの北上聖さんが、渚ちゃんのお母さんだって判ったの。つい、この間」
「えー?なに?なんで? 聞いてないよ! えー?」
喚く鮎に奏が老人ホームでの出来事を丁寧に説明する。鮎はすっかり感心した顔になる。
「渚、マジ?」
渚はまた小さく肯いた。
「おばあちゃんから聞いただけやけど」
「それでなのかー、渚のポテンシャル。うわー、一大事!」
騒いでいるうちに休憩時間が終わり、舞台では3曲目が始まった。
ショパンの『雨だれの前奏曲』だ。四月に老人ホームでも聴いた曲。そして渚が57Fキーのチューニング不足を聴き分けた曲だった。
お母さん、なんでこの曲を選びはったんやろ。前と同じ曲。そしてきっと一生忘れへん曲。
演奏が終わって聖が立ち上がり、またマイクを取った。
「ショパンの24のプレリュード・作品28から、15番目の『雨だれ』でした。外は雨ですね。この曲はちょうど季節に合っているって言うだけでなく、私にとっても忘れることの出来ない曲なんです。私の演奏が、皆さまにとってもそうあって欲しいなと思います。では、次はなんとアニソンです・・・」
渚はそれ以降の言葉を覚えていない。『皆さまにとっても』が『渚、あなたにとっても』と聞こえた。お母さんも忘れてはらへん…。
続いて演奏されたのは、ギルティ・クラウンのOP『My Dearest』。美しく壮大なメロディとともに、渚は歌詞を思い出していた。冒頭から出て来る“I'm yours”。
何かが伝わって来る。
最後の曲はショパンの『バラード1番』だった。これも渚の好きな曲だ。お母さん、あたしと好みが一緒?
演奏が終了しても拍手は鳴りやまず、聖は再び登場する。アンコール曲として同じくショパンのエチュード、有名な『別れの曲』が演奏され、リサイタルはお開きになった。観客たちは立ち上がり、階段を降り始める。鮎はそんな周囲を見回しながら渚と奏に声を掛けた。
「さ、行こう! 楽屋!」
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