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第70話 母
「え?」
驚く渚の手を奏も引っ張った。
「私、ここ行ったことあるから連れてったげる」
二人に引きずられるように渚はリサイタル終了後の控室に連行された。何名かのファンが既に花束を持って並んでいる。しかし奏は突進した。ドアをノックし、
「北上さん! 渚ちゃんを連れてきました!」
と大声で叫んだ。
居並ぶ出待ちのファンが驚く中、ドアが小さく開く。奏はその隙間に渚の顔を突っ込んだ。すぐにドアが半分開かれ、出待ちファンを差し置いて、三人は楽屋になだれ込んだ。
「来てくれたの!」
聖が喜色満面で出迎える。しかし渚の表情は俯き加減で硬い。鮎が渚の背中をパシっと叩いた。
「ほら、渚! おめでとうございます でしょ?」
背中を押された渚は目が泳いだまま一歩前に出て、
「あの。リ、リサイタルおめでとうございます」
と蚊が鳴くような声で言う。奏が苦笑いを浮かべながら手助けする。
「あの!渚ちゃんだけがまた聞き破ったんです!57F」
途端に聖の表情がぱぁーっと明るくなった。
「そうなの? 始まってすぐ気がついたんだけどさ、もう、舞台から渚に電話しようかと思ったくらいよ」
渚はまだ頑なな表情のまま。聖が歩み寄って両手を渚の肩に乗せた。
「渚、長い間、本当にごめんね。急にお母さんって言われても困るよね。だから渚が言いたいように言えばいいのよ。私、渚に嫌われても仕方ないって思ってるから。でもね、渚を忘れたことは一日も無かったよ。毎日、渚、元気かなって。同じ位の齢の女の子を見掛ける度に、きっと渚もあんな格好で、あんな風に歩いて、あんな風にお喋りしてるんだ…とか…」
聖の声は途中から涙声に変わった。渚はしばらく俯いていたが、ようやく顔を上げ呟いた。
「お…母…さん」
目が涙で盛り上がっている。そして絞り出すように涙声が出た。
「お母さんの、ピアノ…、あたしが調律…します」
隣で鮎がもらい泣きしている。聖は渚を抱き締めた。そして渚の髪を撫でながら優しく言う。
「ありがとう。10年経ったらお願いするね。今の調律師さん、引退するから」
「え゛?」
渚が突然マジな声を出す。隣で涙を拭きながら鮎が噴き出した。
「そりゃそうよ渚、幾ら関西人でも厚かましいよ。この場合は、お母さんじゃなくてピアニストの北上聖さんなのよ!」
「失敗したら取り返しつかないしね」
奏も笑っている。渚は戸惑いながら聞き返す。
「そうなん? そう言うもんなん?」
きょとんとする渚のほっぺを、溢れた涙が伝い降りる。聖が指でそっとそれを拭った。
「お母さん、とっても嬉しいよ。でも仕事には厳しいからね。この前のシンメル位の調律が出来れば大丈夫だと思うけど」
それを聞いた奏が、突然手を叩いた。
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