ありふれた恋

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違う学年の廊下は、いつだって異世界だ。 1年生の教室も3年生の教室も見えないバリアのようなものがめぐらされていて、足を踏み入れるだけでなんとも居心地が悪い。 けれども、今は違う。おそらく、この廊下を行き来していた3年生たちが、一斉にここから巣立っていったせいだ。 卒業式が終わってすでに1時間。廊下にはまだ人影があるものの、式が終わった直後に比べればだいぶまばらで、他学年のフロアをうろつくのが苦手な僕としては、正直かなりホッとしていた。 ああ、ほんと面倒くさい役目を押しつけられたものだ。 寄せ書きの色紙を、先輩たちに配らなければいけないだなんて。 まあ、じゃんけんで負けてしまったんだから仕方がない。 それに、僕が任された5人のうち、4人にはすでに渡し終えていた。 残るはあとひとり。 このひとりが、僕にとっては「いわくありの人物」なのだけれど。 一時期、僕は坂上先輩のことを観察していた。 それもかなり下世話な理由から。 きっかけはささいなこと。放課後、屋上で坂上先輩がキスしているのをたまたま見てしまったのだ。 もっとも、それだけなら「ふーん」で終わっていた。 問題はその相手だ。 同じ男子バスケ部の杉本──つまり男。 え、なに? 今はやりのBL的な? いちおう断っておくけど、僕だってあんなの見たくて見たわけじゃない。たまたま目撃してしまっただけ、つまりは巻き込まれ事故のようなものだ。 ぶっちゃけ、あんなの見たくはなかった。 だって、気持ち悪かったから。 ねっとりと唇を絡ませて、唾液の音とか聞こえてきそうで、無理──ほんと無理すぎる。 思い出すだけで背筋がゾワリとして、僕はしばらくの間、ふたりに近づくことができなかった。 屋上に行くのも、避けるようになった。 ていうか、あんな誰が来てもおかしくない場所でキスなんかするなよ。 そりゃ、すごく夕焼けがきれいな日だったから、つい盛りあがってしまったのかもしれないけどさ。 あのふたり、自分たちが滑稽なことをしているって自覚がないんだろう。 そう──不快感の理由のひとつが、先輩たちのキスの「滑稽さ」だ。 あれが、ふつうの男女なら「うわ」って驚いて終わるんだけど、先輩と杉本は違った。ただただ違和感がすごかった。 やっぱり、男同士ってキツいんだよ。 なのに、必死にふつうの真似事をしているというか、下手くそなお遊戯を披露しているみたいで。 なのに、ふたりは体育館でもけっこう意味ありげな目配せをしているんだ。それに、やけにお互いの身体に触ったりして。 他の部員たちは「じゃれあっている」くらいにしか思っていなかったかもしれないけれど、もらい事故をくらった僕の目には、ただただ不快に映った。 下手くそな恋人ごっこを、延々と見せられているみたいだった。 ふたりのそうしたやりとりはその後3ヶ月ほど続いて、ある日を境にぱたりと接触がなくなった。 たしか、ウィンターカップの予選がはじまる1週間ほど前だと思う。 なにがあったのかは知らない。 ただ、目配せをしなくなって、シュートが決まってもハイタッチすらしなくなって、「あれ」と思っているうちに噂が僕の耳にも届いた。 杉本に、彼女ができたってやつ。 それで「ああ」って納得して、俺はふたりをチェックするのをやめた。 ちなみに、その日の帰り道、偶然にも駅のホームでべっちょりキスしている大学生っぽいカップルを見かけた。 もちろん男と女。あまりにもべっちょりしていたから、思わず「うわ」って声をあげてしまった。 でも、決して「気持ち悪い」とは思わなかった。 やっぱりあれがふつうだよな。 坂上先輩の教室を覗き込むと、女子生徒が数人残っていた。 先輩の行方を聞くと「屋上にいるんじゃない?」だそうだ。 「坂上って、いつも屋上でサボってたよね」 「それそれ。坂上探すとき、みんな屋上に行ってたよねぇ」 うわ、そんな場所でキスしていたのか、あの人。 口の軽いヤツに見つかったら、どう言い訳するつもりだったんだろう。 ていうか、今となってはあのふたりが本当に付き合っていたかどうかも謎だ。 あのキスも、実はたまたまふざけていただけなのかもしれないし、その後のあれやこれやも、ちょっとじゃれあっていただけなのかもしれない。僕はふたりのキスシーンを見ていたから、そんなふうには受けとれなかっただけで。 そう考えると、あの違和感も納得できる。 あれは男女間でよくある「恋愛」ではなく、男同士のたまにある「悪ふざけ」の延長で、だから僕はふたりが好き合っている者同士のようにふるまうことを、受け入れられなかったのではないか。 そう、僕が悪いわけじゃない。 あのふたりのアレが「恋」ではなかったから、僕は違和感や嫌悪感を抱いていただけなのだ。 そう結論づけて、僕は屋上への重たい扉に手をかけた。 ギギ……と鈍い音をたてて、鉄製の扉は開いた。 一瞬、またキスシーンが繰り広げられていたらどうしよう──と身構えたけれど、振り向いたのは坂上先輩ただひとりだった。 「あれ、どうしたの?」 「おつかれさまです。これ、渡そうと思って」 色紙を差し出すと、先輩は「ああ」と笑った。 「寄せ書きかぁ、わざわざありがと……」 先輩の視線が、色紙の右下隅っこをとらえた。 わずかな、沈黙のあと──ぱたぱたぱたと色紙の上に大粒の雫が飛び散った。 「あ……」 先輩は、慌てたように色紙をこすった。 「やば、消えちゃう……」 水滴で滲んだその文字は、杉本が書き記したものだ。 ──「いつまでもお元気で」 どこまでも素っ気なくありきたりな、別れの言葉。 そのどこに、どんな理由で泣いてしまったのか、部外者である僕には理解できない。 ただ、初めて思った。 先輩は、本当に杉本のことが好きだったんじゃないかと。 僕が受け入れられなかったあれは、ちゃんとした、ありふれたひとつの「恋」だったのだ。
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