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第1話 頭痛や鮮血にまつわること
20XX年――。世界は矛盾と不条理が極まり、無惨な様相を呈していた。そこに生きる者たちが体験することは本当に意味があったのか。
二十一世紀も半ばになると、かつての常識であるとか理想であるとかは形骸化されてしまった。もはや「自由・平等・博愛」のフランス国旗的思想も「民主主義」という先進国では最善とされていたシステムも過去の遺物となり、もともと混沌としていた世界はさらにその度合いを強め、世界各国が、そして日本国も例外なくただただ息苦しい空気の中で多くの人々は苦痛に顔をゆがめながら蠢いていた。
息苦しい空気という言葉は比喩でもあるが実際、地球温暖化・大気汚染への対策を正しくできなかった各国政府の失策により、この世界は人体にひどい悪影響をもたらす物質を含んだ気体に包まれている……。
「やめてくれ!」
高齢のせいか背中がだいぶ曲がった白髪の男は抗議的に叫んだ。だが彼の声は、しゃがれて弱々しく、責め立てる風であったのに相手にはまったく刺さらないと思われる不憫極まるものだった。
十三年前に「東京市」と改められて統合された旧東京二十三区。その隅に追いやられたスラム街にある小さな空き地で叫んだ男は、女軍人が持つ小銃で頭蓋を叩かれた。
がちん、と厭な音が響き、どさり、と乾いた音とともに前に倒れ込む男。女軍人は顔色ひとつ変えず、片手で頭を押さえながら極めて事務的に倒れた男へ冷水を浴びせた。
初冬の冷え込んだ朝である。倒れた男の皺だらけで汚らしい染みがついた衣服は、大量に浴びせられた泥水と相まって見るに堪えない様相を呈するまでになった。
「くせぇんだよ」
女軍人は無機的につぶやいた。
――このまま死んでくれれば、少しは私の負担が減るのかもしれないが――。
彼女は若干面倒くさい心持ちだった。法的に、軍人が「下等民」を殺害することは特段問題がない。なかんずく老人であればなおさらだ。とはいえ、収容施設外での殺人行為は、軍部内での煩雑な報告義務があり、それはそれで面倒なことではある。
「小川。まあ、そのくらいでいいだろう」
上官である伍長の西野が大きなあくびを隠さないまま、目鼻立ち整った女軍人に声をかけた。
「スラム街で反乱分子を殺したくらいで書類を大量に提出、という仕組みは無くしてほしいですよね」と、小川と呼ばれた女軍人は何ら感情を込めずに返答する。
西野は、まあ仕方ねえよな、とぼそりとつぶやきながら紙巻き煙草へ火をつける。この四十がらみの男は陸軍附属大学を首席卒業して、将来を嘱望されていた。だが、時代にそぐわないだらしない喫煙に加えて、酒癖の悪さによる数々の不祥事を起こしたせいで、下等民の処理にあたる現場で指揮をとる立場に甘んじていた。
「かったるいことはしたくねえな。上役連中のイヤミを聞くのはうんざりだ。とっとと仕事を終わらせようぜ」と西野は胸ポケットに忍ばせていたウイスキーの小ボトルを口にした。「ああ、酒飲みてえ……。ん。今飲んでるか……」と独り言つ。
(「こっち側」の人間にしては品がなさ過ぎる)と思い、小川は若干の憂鬱さに襲われたが、遠くに見えるスラム街入り口付近の看板に大書された「弱さは悪徳」という文言を誰にも気づかれないような小声で口にし、本格的に任務へ戻ることにした。
――小川は幼い頃からのひどい頭痛を感じながら、下等民たちをトラックの荷台に詰め込む用意を始めた――。
「まあ俺も若い頃は、くだらねえ抵抗をしてくる連中にはやってたな。さっきのお前みたいに」
西野は煙草の煙を勢いよく吐き出しながら言った。
小川がハンドルを操りながら「伍長は多くの下等民を一度に十人以上、街の中で射殺した……と聞いたことがありますが」と返す。
「ん? お前、それ知ってんのか?」
「わりと有名な話になっていますよ」
「若気の至りだ」
素っ気なく答えた西野がウイスキー瓶の口を舐める。
大型トラックを運転する小川は二十代半ばの華奢な身体つきをしている女ではあるが、軍の無骨な空気になじんでいた。「一般国民」と呼ばれる身分の彼女は、国内で毎日「下等民」を「処分」する軍務に対して絶望などはもちろんしていない。そして大きな野望も希望も持っていない。何にも期待していない。日々、粛々と仕事をこなすその姿勢は、まさに「国民」と呼ばれる層全体が期待する理想的な軍人のそれだった。
今も十トントラックの荷台ですし詰めにされた下等民たちを茨城県の「処理場」へ運ぶという任務をまったくの無感情で遂行している。
思い出したかのように西野が煙草臭とウイスキー臭の混じった口を開いた。「そういえば荷台はジジイとババアしかいないと思っていたが、ほんの数名若い奴も乗ってるようだな」
小川は「そういえばいましたね。若干……」と、特に興味をそそられることもなく答えた。下等民を人間としてではなく、どちらかといえば粗末な「モノ」のように見ている彼女の偽らざる気持ちの発露だ。
「気をつけろよ」と西野は言った。
「何にです?」と小川が問う。
西野は「たいしたことじゃねえけどな。今日は珍しく十代後半くらいの下等民を荷台に乗せている。下等民のガキどもは意外に体力がある。荷台のドアを開けた途端に掴みかかってくる可能性がないでもない。自棄になった下等民は何をしでかすか分からんから気をつけろってことよ」と答えた。
「私にとって処理の任務に関して失策はあり得ません」
小川の素っ気なくも自信あふれる口ぶりに、助手席の西野伍長は(仕事ができる部下を持つと楽ができて結構なことだ)と思い、しばしの眠りに入ろうと目を閉じた――。
国道六号線をひた走るトラックの荷台内部は、すべての希望が失われたという思いに打ちひしがれている二十余名の下等民が一様にうなだれて力なく座り込んでいた。トラックのまさに単調で機械的な、それでいて不穏で暴力的なエンジン音だけが響いている。
トラックに積まれる前に小川から頭蓋を打ち付けられた老齢の男は、半ば意識を失ってい、床に尿を浸させていた。
「くせぇんだよ」
高齢の下等民に混じって、三人いる少年のうち一人が静かにつぶやいた。その言葉は、放尿している老人に対する怒りというよりも、現在自分が置かれている状況にへの苛立ちからのほうが大であるかのようだった。
このトラックの荷台に乗せられた下等民はもれなく収容所に入れられる。そしてほぼ間違いなく処分されてしまう。
――とりあえず国民に等しく基本的人権が与えられていたのは一昔前の話だ。
いや、そもそも最初から基本的人権などあったか? という疑念を抱いてしまうのが人情ではあるが、それはさておき……。
二十年以上、毎日欠かすことなく襲ってくる頭痛をもなんとか上手く飼い慣らせるようになった小川は、茨城県南の広い平地にトラックを停めた。
昼にもかかわらず暗い雲に覆われたその平地には、関東の各地から運ばれてくる下等民を監禁・処分する施設がそろっていた。
助手席の西野はまだウイスキーと煙草を楽しんでいる。いつものこととはいえ、小川はため息交じりにトラックを降りる。
もちろん念のために銃を抱えながら、荷台の鍵を開けた。
ドアが勢いよく開いた。
――西野が言ったとおりになった。若い下等民たちが躍り出て、いきなり小川の身体を突き飛ばした。銃などを使う余裕もなく地面に倒れ込む小川。気をつけていたつもりだったが、あまりにも瞬間的な勢いある抵抗に押しきられる事態に。
「くそ……っ」思わぬ不覚に思わず声が出た。
下等民の若い男三人は、たかって小川の顔面や腹を蹴り上げる。小川が銃を握りしめると、下等民たちは若さにまかせた健脚を使って素早く逃走に転じた。
「待て!」と小川は無意識に叫んだが、当然ながら決死の覚悟で逃げる者が待つわけがない。
三人組の下等民を即刻射殺しなければならない。
だが、小川は蹴られた顔面が血まみれになっており、かつてないほどの頭痛によって身体がふらついた。銃先の焦点が定まらない。そうはいっても逃がすわけにはいかない。
片手で自分の頬を強く叩いて意識をどうにか立て直す。足の速さならば小川も自信があった。
下等民が射程距離に入った。頭の痛みは増すばかりだが、どうにか射撃体勢を整えられた気がする。慎重にではあるが、これ以上ない気合いと力を込めて発砲した。
果たして弾丸は一人の下等民に命中。頭にジャストミート・ヒット。脳が破裂して鮮血が飛ぶその様子は旧時代のスイカ割り大当たりなど問題にならないくらいに派手派手しさを見せた。
だが。三人の中の二人は、みすみすと逃げおおせさせてしまった。小川は大きく舌を打つ。
少年たちに蹴られた箇所が激しく痛む。出血が止まらない。頭痛はさらに激しさを増す。小川は、ふらりと地面にひざまずく格好となった。
――失態――。
気を抜いたつもりではなかったが、結果的には油断・怠慢の謗りを免れない。小川の心中は、ちょうど今の薄暗い曇り空のごとくどんより濁りきった。
小川は片手で頭を抑えながらトラックのある場所へ戻る。大きな失敗を上官の西野へ報告することや、その後の軍法会議などのことを考えると気鬱が募った。
しかし、自分の職務結果に嘘をついても仕方がない。生真面目を通り越して神経質な小川はトラックを見た。血なまぐさい状況に息を呑んだ。
逃げた少年たち以外の「下等民」たちは、もれなく絶命している様子だった。体中から大量の血を流している。
また西野伍長が勝手な銃殺を……? どのみち殺される「下等民」だが、さすがにこのやり方は常軌を逸していた。
無論、己の失態をやましく思う小川ではあったが、この場の異常な光景に関して西野から話を聞かねばという思いを胸に運転席に向かった。
「伍長――」と呼びかける。
西野も死んでいた。額の真ん中にある銃傷から血を流して。
そして彼の露わになった下半身には、やや年嵩の女が西野の陰茎をくわえたまま、やはり死んでいた。後頭部からの出血をいまだ止めずに。
混沌と謎の極みである状況にもかかわらず小川は、逆に自分が冷静になっていくのに気づく。
しかし、冷静になればなるほど長年飼い慣らすのに苦労した狂気が、むくりと完全に立ち上がるのを感じた。そして小川は、その点に自分の特殊性のようなものを一切感じない。
冷静な狂気――。
思えば、世界はその一言に集約され、説明がつくのかもしれない。
小川は銃を構えると、事切れている西野の顔面に向かって発砲。何の躊躇もなかった。何の考えもなかった。顔を潰された西野が大小便を流し続ける様を見て「くせぇんだよ」とつぶやくのみだった。
西野の銃を奪った小川の早足は、先ほど逃亡した少年たちの方面へ向いた。
そう長くない人生において、自分の積み上げた一切を捨てた小川二等兵の行方は漠として知れない。
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