最低で最悪のサプライズ

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 ■    話は夫のサラリーマン卒業の日の朝に戻る。  私は玄関の上がり框に屈んでいる夫の背中に感慨深いものを感じながら、いつものように夫が靴紐を結び終えるのを彼のカバンを胸に抱えて待っていた。靴紐を結び終えた夫が立ち上がり、こちらを振り向くと同時に軽い笑顔とともにカバンを差し出す。これは長い年月続いた玄関先での一連の流れなのだがその日は、 「行ってらっしゃい、あなた……今日が最後ね」  と、いつものルーティンにはない自分が発した「……今日が最後ね」という短い言葉に、思わずグッと熱いものが胸に込み上げた。  夫は私の言葉が照れ臭かったのか私と目を合わせることもなく、 「ああ、行ってくる」  とだけ言って私からカバンを受け取り、ドアに回れ右をした。  私はいつになく三和土まで下りて、ドアを出た夫の背中に手を振り最後の見送りをした。  行ってらっしゃい、あなた。  今夜帰って来たら、オリンピックの表彰台の一番高いところにあなたを立たせて、その首にピカピカの金メダルをかけて上げる……なんて、そんな気持ちだった。  そうなのだ、あの日の出だしは純粋にそんな気持ちだったのだ。  そして何だかんだと祝いの準備に追われ、 テレビで一息ついての夜七時。  エプロンを外し、唇にはピンクの口紅。    テーブルの上には尻尾をピンと立てて塩焼きになった真鯛が、家で一番りっぱな絵皿に堂々と横たわっている。グリルで程よく焼き目のついたそれは、一品一品手をかけた割にはこれといった目新しさのない食卓を、どうにか祝いの席らしく見せていた。    やがて玄関ポーチに夫の足音が。  三十年聞いて来た足音だ。    私はスリッパをペタペタさせてダイニングから玄関へと短い廊下を走った。  
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