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三月も末の金曜日のこと。
夕暮れ時の新宿駅は様々な賑わいに満たされていた。
年度末ともあって、世の中の人は色々と忙しいんだろう。
予算の締めとか転勤とか、あるいは卒業とか。
先程から卒業証書入りの黒い筒を携えた制服姿の学生をちらほらと見掛けるように思う。
おそらく今日はあちこちの学校で卒業式をやっているんだろう。
行き交う人が醸す慌ただしい喧噪の中、僕は急ぎ足で小田急線のホームへと向かう。
町田駅行き快速電車の発車まであと僅か。
小走りで階段を駆け下りてホームへと辿り着く。
「町田行きの快速電車、間もなく発車致します」とのアナウンスが響き渡る。
まだ開いている快速電車の扉へと身体を滑り込ませる。
背後にて「プシューッ」と扉が閉じる音が響く。
まさに間一髪だった。
軽い振動と共に電車は出発する。
やや荒くなった息を整えつつ、僕は空席を探そうと車内に目を遣る。
車内を見渡す僕の心の中に驚きが湧き起こる。
すぐ近く、扉のすぐ傍の席に良く知る顔を見出したのだ。
やや癖のある肩くらいまでの黒髪、くっきりとした二重瞼も鮮やかな切れ長の目、やや丸みを帯びた顔、そして筋の通った高めの鼻。
その顔立ちは、十人が見たら、うち六人は美人だと判定するんだろう。
もちろん、この僕も美人と判定する側だ。
僕が美人だと判定するその彼女も、僕の存在に気が付いたようだ。
その顔に驚いたような微笑みを浮かべ、右手を小さく挙げて僕のほうへと振って見せる。
心の中にじんわりと嬉しさが込み上げる。
それと同時に冷ややかな痛みが心を苛み始める。
ほんのりと、そしてチクチクと。
彼女の左隣は三人分ほど席が空いている。
心の痛みが躊躇わせたけれども、座らないのは不自然だし、残念ながらその隣に座りたい。
そして、彼女の浮かべる微笑みがそれを許している気もしたので、隣に座ることにする。
もちろん、ピッタリと身を寄せるようなことはしない。
拳1個分ほどの隙間を空けるようにして、彼女の左隣へと腰を掛ける。
そして、彼女へと声を掛ける。
努めて何気なさを装って。
「珍しいね、電車の中で会うって」
彼女は僕の方にその顔を向け、目を大きく見開つつ言葉を返す。
「そうだよね~。
電車の中でたまたま会うって初めてだよね!
同じ小田急線沿いに住んでるのにね」
ややテンションが高めのその声は、いつもの彼女のものと何ら変らなかった。
安堵した気持ちを気取られぬようにしつつ、平静な調子で言葉を返す。
「俺って普段は残業ばっかりだから、この時間帯の電車にはほとんど乗れなくてさ。
今日はたまたま早く仕事が終わったんだ」
「そうだよね、いつも忙しそうだもんね」
合いの手を入れるようにして言葉を返した彼女は、膝の上に載せたカバンの口を開け、何やらゴソゴソと探し始める。
一頻りカバンの中を探った彼女は、黄色いパッケージの大豆バーを取り出した。
パッケージを注意深く開いた彼女は、大豆バーに勢い良く齧り付く。
頬の筋肉のダイナミックな動きが、モリモリと咀嚼している様を雄弁に物語る。
三口ほどで大豆バーを平らげた彼女は、ペラペラのパッケージを無造作にカバンの中へとしまい込む。
小さく溜め息を吐いた彼女は、落ち込んだような口調で話し始める。
「今日はさ~、朝から立て続けに会議でさ。
昼ご飯を食べに行けなかったんだよね」
慰めとからかいが入れ混じったような口調にて、僕は言葉を返す。
「お疲れさま。
でもさ、忙しくなるのは、きっと前の日から分かってたよね。
朝にコンビニで何か買って行けばよかったじゃん」
大袈裟に項垂れて見せた彼女はこう口にする。
「そうなのよ。
忙しくなるのは昨日から分かってたんだけどね」
そして、その顔を上げ、不思議そうな表情を浮かべながらこう言った。
「凄いね~!
私のこと分かってるね」と。
僕は「やっぱ、そうだった?」と、おどけた調子で言葉を返す。
だってさ、同じような話を1年半前もしたじゃん、といった言葉を呑み込んで。
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