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緩やかに速度を落とした電車は、次の駅にて停車する。
ドヤドヤと人が乗り込んできて、空いていた席は次々と埋まっていく。
僕の左隣の席にもサラリーマンと思しき中年男性がその身体を押し込んでくる。
やむを得ず、僕は彼女のほうへと身体を寄せる。
密着した部分から彼女の体温が伝わって来そうな気がして、鼓動がその速さを増す。
電車のドアが閉まり、電車は再び動き始める。
やや急に発車したせいか、サラリーマンの身体が僕の方へともたれかかり、圧が押し掛る。
押し掛る圧が彼女へと伝わらないように、僕は足に力を込めて踏ん張る。
電車は滑らかに速度を増し、程無くして加速は止む。
僕にもたれかかっていたサラリーマンは、その身体を真っ直ぐに戻す。
サラリーマンの圧からようやく解放された僕は、足の筋肉を弛緩させる。
チラリと彼女の横顔を見遣る。
彼女はその横顔に物憂げな色を湛えているように思えた。
その様が気になった僕は、それとなく質問を振ってみる。
「そう言えばさ、最近はどうなの?」
探りを入れるような曖昧な質問だったけど、彼女は迷う素振りを見せることも無く、我が意を得たとばかりに語り始める。
その内容は、僕がまさに知りたかったものだった。
「う~ん…、まぁまぁ、ってとこかな。
この間は彼の家に行ってさ、キムチ鍋を一緒に食べたの」
ふむふむと頷く僕の態度に気を良くしたのか、彼女は勢い込んだかのように言葉を続ける。
「でもさ、ひどいんだよ。
ホントはね、豆乳鍋をしようって前の日から話をしてたの。
でもね、材料を買いに一緒にスーパーに行ったらさ、『キムチ鍋の素』が特売で半額だったの。
そしたら彼って急に『キムチ鍋にしよう』って言い出してさ。
嫌だって言ったんだけど、押し切られてキムチ鍋になった。
ひどくない?」
憤慨してみせる彼女の態度は、その言葉とは裏腹に何とも言えず可笑しかった。
本人としては至って真面目なんだろうけど。
もし僕が彼女から豆乳鍋が食べたいなどと言われたら、おそらくは前の日あたりに成城石井にでも行って、プレミアムな感じの『豆乳鍋の素』でも買って行くんだろうなと思いながらこう言ってみる。
「でもさ、キムチ鍋もいいじゃん。
ここんとこ冷え込んだりしたから丁度良かったんじゃない?」と。
まぁ、そうなんだけどさ…と言葉を返しつつも、憤慨は未だに収まらないのか、彼女は愚痴を延々と繰り出してくる。
「でもさ、いつもなんだけど、彼ってお金に細かいんだよね。
買い物するのは結構離れた業務用スーパーだし、旅行する時もポイントがたくさん貯まる方法をメッチャ検索してるし」
そりゃ随分としっかりしてる彼氏さんだね、と驚いた口調で言葉を返す。
そして、取り敢えずはキムチ鍋の彼氏さんをフォローしてみる。
「でもさ、前の彼氏より全然いいじゃん。
前彼ってヤバかったよね」
取り敢えずはそこまで口にして、彼女の様子を伺う。
彼女はアハハッと乾いた笑い声をあげて、
「うんうん、あれって今にして思えばホントにヤバかった」と言葉を返す。
そして、今度は前彼の愚痴をこぼし始める。
「だってさ、土曜の朝からパチンコに行くって言うんだよ。
私を朝八時に車で迎えに来て、それから真っ直ぐにパチンコ屋に行ってさ。
私がパチンコ屋の中はうるさいから嫌だって言ったら、5時間くらい車の中で待たされたんだよ。
ひどくない?」
僕はその当時のことを思い出しつつ言葉を返す。
「あぁ、そうだったね。
それで昼過ぎにやっと出てきたと思ったら、吉野屋に行って牛丼食べて、それで解散だったっけ?」
彼女は大きく頷き、我が意を得たりと言わんばかりに熱弁を振るう。
「そうそう、吉野屋!
5時間も車の中にひとりで待たせておいて吉野屋なんだよ。
ひどいよね!」
パチンコ野郎と比べると、キムチ鍋の彼氏って随分まともじゃんと言う僕に対し、彼女はこう言葉と返す。
「まぁ、前の彼氏よりはいいんだけどさ。
でも、この間の旅行中だって、色々と細かかったんだよ」
それから彼女は延々と、旅行中のキムチ鍋君について愚痴り始める。
旅行日程の細かさとか、金勘定のシビアさなどについて
そうだったんだ、そりゃ変ってるね、などといった合いの手を入れながら、気になったことについて尋ねてみる。
「そう言えばさ、旅行って何処に行ったの?」と。
彼女は答える。
「出雲大社の辺りに行ったよ」と。
僕は、心の中にて思わず溜息を吐く。
出雲大社って縁結びスポットだったよな、随分と本気度の高い。
またも彼女へと質問を投げ掛ける。
「出雲大社に行ったんだ。
それって、二人で行こうって決めたの?」と。
彼女は淡々とした調子で答える。
「うん。
彼がね、出雲大社に行こうって言って来た。
それでね、私もいいなって思って賛成したの。
出雲大社って縁結びの神様なんだよね」
成程ね…。
キムチ鍋氏から行こうと持ちかけ、彼女も快く受け入れた訳か。
縁結びの神様だと理解しつつ。
三月の陽が落ちるのは意外にも早く、車窓から覗く空は濃紺へと染め上げられつつあった。
車窓を過ぎ行く白々とした街の灯は何処か寂しげで、冷ややかさを僕の心に差し込んでくるようにも思えてしまった。
つい先程までの応酬はピタリと止み、僕と彼女との間には沈黙が横たわっていた。
徐々に重みを増しつつあるような沈黙にハッとした僕は、横目で彼女の様子を伺う。
僕が急に黙り込んだことを不審に思っていないだろうか、との怯えにも似た気持ちを抱きながら。
しかし、彼女がその顔に浮かべる表情は、そんな僕の懸念とはまるで異なるものだった。
俯き気味の彼女は、その顔に物憂げな表情を浮かべていた。
その表情が気になった僕は声を掛けてみる。
「何かあったの?」と。
ハッとした様子を見せた彼女は、やや躊躇いがちにその口を開く。
「いや、ね…。
色々と考えてることがあってさ…」と。
彼女のその口調は先程までの、そして普段の快活なものとは相当に様子を異にするものだった。
「え、どうしたの?」と、僕は尋ねる。
彼女がその顔に湛える憂いの色は、益々その濃さを増すようだった。
彼女は思い切ったかのように顔を上げ、そして僕の方へと向ける。
そして、「あのね…」と口にする。
しかし、彼女の言葉は、次の停車駅に間もなく到着することを告げるアナウンスによって無造作に遮られた。
ハッとしたような表情を浮かべた彼女は席から立ち上がる。
彼女が降りる駅に、この快速電車は止まらない。
だから、手前の駅にて各駅停車の電車に乗り換えなければならないのだ。
電車は次第にその速度を減じていく。
「話の途中だけど、もう乗り換えなきゃいけないから…」
そう告げる彼女の表情は、何処か縋るような色を帯びていた。
彼女に続くようにして席から立ち上がった僕は、
「じゃ、各停の電車の中で続きを聞かせてよ」と彼女に告げる。
「え?!
快速で帰った方が早く着くでしょ?」と、戸惑った様子で彼女は答える。
微かなブレーキ音を響かせつつ電車は停まった。
「プシュー」という音を響かせてドアが開く。
「ほら、降りようよ」と、僕は彼女を促す。
少しの躊躇の後、彼女は小さく頷いた。
そして、僕たちはホームへと降り立った。
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