想いからの卒業

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各駅停車の電車の中は人影も(まば)らだった。 空席も難無く見つけることが出来た。 僕と彼女は並んで座る。 電車はゆっくりと走り出し、振動が規則正しいリズムを刻み始める。 車窓から見える空は、すっかり夜の色へと染め上げられていた。 僕は左隣に座る彼女の横顔をチラリと見遣る。 その横顔は、どこか思い詰めたかのような雰囲気を湛えていた。 「で、話の続きって何?」と、僕は彼女を促す。 彼女は僕の顔をチラリと見る。 その瞳は、困り果てたような色を湛えていた。 そして、彼女は思いきったかのように、その口を開いた。 「実はね… 明日なんだけど、彼がうちに来ることになっててさ…」 彼女のその言葉に、僕は息が止まるような思いに襲われる。 そんな僕の思いを余所に、彼女は言葉を続ける。 「そろそろお互いの親に挨拶したほうがいいよねって話をしててさ。 うちの親も彼のことを私から聞いてて、結構乗り気でさ…」 押し黙った僕に構うこと無く彼女は言葉を続ける。 「でも…。 何だか急に怖くなってきて。 いざ、そんな感じになっちゃうと、彼のいろんな態度が気になっちゃうの。 こんな状態で話を進めて大丈夫なのかって不安になっちゃうの」 そこで、彼女の言葉は途切れた。 僕は、思わずこう口にする。 「でさ、どうしようと思ってるの?」 その声は、きっと震え気味だったんだと思う。 でも、彼女はおそらく気が付かなかったんだろう。 そんな余裕は無かっただろうから。 思い詰めたような表情をその顔に浮かべながら、彼女はこう口にした。 「うん…。 明日は止めようって彼に言おうと思ってるの。 もうちょっと後でもいいよね、って」 僕は、思わず宙を見上げた。 様々な思いが胸を過ぎる。 色んな記憶が脳裏へと去来する。 パチンコ野郎のこととか、キムチ鍋の彼氏のこととか。 或いは1年前のこととか。 湧き上がる思いや記憶で揺らぐ心の中に、つい先程の会話が浮かび上がってくる。 キムチ鍋の話が、出雲大社の話が。 そして、その時に抱いた気持ちもまた蘇ってくる。 そう。 僕の中で、もう結論は出ていたんだ。 迷う余地なんて最早無かったんだ。 僕は大きく、されど静かに息を吸い込む。 そして意を決し、こう口にする。 「いや、それ止めないほうがいいと思うよ」と。 ハッとした表情となった彼女は僕を見つめる。 僕は、彼女に問い掛ける。 「多分なんだけど。 その話って、けっこう前からしてるでしょ?」と。 彼女は小さく頷き、そして、こう答える。 「うん…。 先々週に旅行に行った時、その話をした」と。 僕は思わず小さく笑い声を上げる。 相変わらずだな、と思ったから。 訝しげな表情を浮かべる彼女に対し、僕はこう口にする。 「先々週から話をしてるのに、前日になって急に止めるって言い出したら、彼氏さんメッチャ凹むと思うよ」 彼女は小さく溜息を吐き、そしてこう答える。 「うん…。 やっぱ、そうだよね。 傷付いちゃうよね。」 僕はわざとらしく大きく溜息を吐き、笑いを(たた)えた声で彼女に語り掛ける。 「いやいや、ちゃんと分かってるじゃん。 そんなことしたら彼氏が傷付いちゃうって」 「うん…。 でもさ、私ってビビりだし優柔不断だし、色んなことを不安に思っちゃうし」 か細い声でそう答える彼女に、僕はこう話し掛ける。 「まぁ、そうだよね。 でもさ、こういう時って誰だって不安にはなると思うよ。 それは誰だった当たり前だと思う。 でもさ、今の彼氏さんって凄くいい人だと思うよ。 お金に細かいのって、きっと将来の生活を考えてのことだと思うし。 それに前の彼氏と違って、ちゃんと相手のことを大切にしてくれるんでしょ? そんな彼氏さん、大切にしなきゃダメだと思うよ」 微かに苦笑した彼女は、僕が言うと説得力あるよね、と言葉を返す。 僕はわざとらしく何度も大きく頷き、そうでしょ、俺が言うと説得力あるでしょ?などと大袈裟な口調にて言葉を返す。 彼女が浮かべていた苦笑は、何時しか晴れやかな微笑みへと変っていた。 電車は次第に減速しつつあった。 そろそろ次の駅に到着するんだろう。 彼女の家の最寄り駅に。 間も無く駅に到着するとの車内アナウンスが流れる。 そのアナウンスに促されたかのようにして彼女は立ち上がる。 低い振動とともに電車は停まり、音を立ててドアが開く。 ドアの方へと歩みを進めながら、彼女はこう口にする。 「話、聞いてくれてありがとう。 明日はちゃんと彼を家に呼ぶね」 僕は座席に腰掛けたままで、微笑みつつ彼女へと小さく手を振る。 そして、(ささや)くようにこう告げた。 「頑張って!」
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