三好陣 令和元年12月①

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三好陣 令和元年12月①

 昔、電車を乗り継いで東京へ向かった時、何時間かかったのか覚えていない。  東京に実の父親がいると聞き、ここを出て東京に行けば、会えると思ったのだ。十歳に満たない子どもだったが、それでも家を飛び出すだけで何故会えると思ったのか。  案の定、乗り継ぎで右往左往している間に警察に保護された。迎えに来た親たちはさも長い間探し回っていたような様子を見せた。助けてくれ、また殴られる、今度こそ殺される、見知らぬ実父を求めるくらいなら、なぜ警察に助けを求めなかったのか。子どもにとって警察は、悪いことをした人を捕まえる存在でしかなく、助けてくれる人たちではなかったからだろう。事実、何度通告されても警察は部屋の中をのぞきこむことすらしなかったのだから。  継父にボールのように蹴られる俺に、実母は吐き捨てた。お前の父親が東京になんているものか。金沢の由緒ある店に婿入りして、悠々自適にやっているさ。人が妊娠したと告げたら、俺の子ではない、勝手にしろとのたまったさ。自分の子と認めるのが嫌だったからか、中絶費用すらくれなかったクソ野郎だ。お前にそっくりだよ。お前もあの父親そっくりの外道になるだろうよ。  普段思い出しもしない母親の声が脳裏に響く。  郷里、というだけで、記憶の底から浮かび上がってくるものがあるらしい。  不快さに、俺はしばし駅のホームに留まった。  久しぶりに北陸の風が頬を刺す。吹き付ける風とともに、チリ、と幻聴が蘇る。懐かしい音に、俺の中の不快さが消えた。  あの店で、ずっと聞いていた音だ。博樹さんに近づくたびに、鳴り響いていた警告音。  近づくな。この人は駄目だ。この人だけは駄目だ。そう伝えるかのように、博樹さんに近づけば近づくほど大きく響いていた音だ。  気がつけば消えていた。いつから消えていたのか、思い出せない。  だが、いつまでも昔を思い出してのんびりしているわけにはいかなかった。約束の時間に間に合わなくなってしまう。  風に押し出されるように、目的地に向かって俺は足を進めた。     人に語れないようなことをしていたというのに、通り過ぎる繁華街の光景がどう変わったのか全く思い出せない。どこかの路地裏で人を殴り、いちゃもんをつけ、引きずり倒したというのに。  タクシーの中から見える光景は、見知らぬ場所でしかなかった。  毎日のように継父から受けた暴力は、外側に向けられるようになった。ろくに洗濯もされない服を着て、給食にがっつく俺をからかった同級生に、殴りかかった。担任は、不潔で痣だらけの俺を見て顔をしかめ、親を呼び出すだけだった。そして学校側から注意された親は、立ち上がれないほど俺を叩きのめした。  そんなことの繰り返しで、十二歳になる頃には、人より身体が大きかった俺は中学生からの喧嘩も買うようになっていた。人に対する暴力が激しさを増し、人の痛みも受ける痛みも感じなくなった時、いつものように殴りかかってきた継父を逆に突き飛ばした。  物心ついた頃から殴られ続け、継父は常に恐怖の対象だった。いつも喧嘩をしている相手よりも弱く、飲んだくれているだけで何もしない男だったが、それでも脳にすり込まれた恐怖はなかなか拭えなかった。  継父が尻もちをつき、焦った顔で俺を見た時、俺の中で優位性が生まれた。ああ、なんだ。こいつ、殺せる。  あとはもう、ものを壊す勢いでバッドで継父を殴り続けた。母親が悲鳴を上げ、外に飛び出して助けを求めなかったら、間違いなく継父を殺し、続けてバッドは母親に向けていただろう。あの時俺の中には、殺すという一つの感情しかなかった。  いったんその感情を己の底に飼ってしまえば、もう追い出すことはできない。  哀も喜も苦も何も無く、人を血の海に沈められる人間は、皆同じだと俺は思っている。  一度それを行ってしまえば、もう終わりだ。反省だの後悔だのの次元ではない。それは死ぬまで消えない。己の中の化け物が絶対に眠りから覚めぬように、見張り続けるしかないのだ。一生。  化け物を表に出し共存し生きる道を選んだ奴もいる。少年院で和菓子を口にしなかったら、俺も間違いなくそうなっていた。 「お客さん、ここでいいんですか。吹き堂はまだちょっと先ですけど」 「ああ、いいんです。ありがとうございました」  近くでタクシーを停めてもらい、呼び出された場所まで歩く。門の影に、人が立っているのが見えた。  あの人は二十六年前も、ああやって立っていた。大学受験から戻ってくる博樹さんを捕まえるために。その後ろ姿を、俺は見ていた。 「お久しぶりです。お呼び立てして、申し訳ございません」 「吹き堂」専務の及川幸樹さんは、深々と頭を下げた。 「ご無沙汰しております」  研究会や協会の会合で姿を見ることはあっても、互いに近づいて挨拶はしなかった。人を介してわずかに言葉を交わす程度である。もともと俺はそうした集まりには出ない。会長を務める「東や」社長に乞われてたまに顔を出すぐらいである。  博樹さんが心配するほど、俺との醜聞は和菓子の世界でも金沢でも広がっていない。博樹さんが家を追い出された時は、従業員は皆出払っていた。家の用事が入っているからと、住み込みの職人らも出され、通いの従業員は二時間遅く出勤しても良いと言われていた。  次男と職人が一緒に消えたのだから、色々想像はされただろうが、それだけだ。  博樹さんが東京に戻ってくる前日の夜、俺は社長に呼び出され、一言、首を告げられた。  そしてそれが、社長との、仕事以外の初めての会話だった。  あの日と同じように、吹き堂内は母屋も店側も人の気配がしなかった。内も外も二十六年前とほぼ変わらなかったが、様子はまるで違っていた。人払いしたとはいえ、ここまで壁や床が深い沈黙の中にあるのは有り得るのか。  あれほど賑やかな声や足音を吸い込んで生き生きと輝いていた床や壁が、死んだように沈んでいる。  もしかしたら、幸樹さんはここではなく別の場所に居を構えているのかもしれない。そんなことを思った時、応接室の襖が開かれた。  そこに座っていた人物を前に、俺は中に通されてすぐ、畳に手をついた。 「お久しぶりです。もっと早くこちらから伺って、お詫びしなければなりませんでした。申し訳ありません」  吹き堂社長・及川正彦氏は、無言のままだった。  何故自分が呼ばれたのか、確信があるわけではなかった。もしかしたら社長の身体の具合でも悪いのか、それで博樹さんを呼び寄せたいのかと考えたが、それならば直接博樹さんに働きかけるだろう。目の前の社長はかなり老いてはいたが、どこか悪いようには見えなかった。今年で七十四歳になるはずである。社長業は引いていないが、もう板場に立つことはとうの昔に止めていると聞いている。  幸樹さんが社長の向かい側の座布団を勧めたが、俺は手をついた場所から動かなかった。 「……博樹は、お前のことを知っているのか」  突如、全てが腑に落ちた。 「……私のこと、と言いますと」  聞き返すと、社長の顔に怒りが浮かんだ。堪えていたものが染み出してくる。 「お前と血のつながりがあることを、知っているのかと訊いとるんだ」  俺は障子戸の傍で身動き一つせず正座している幸樹さんを目の端にとらえた。  いつ父親から聞いたのか。博樹さんが追い出された時か。それとも母親が死んだ時にか。  おそらく亡くなった博樹さんの母親は、俺の存在を知らなかっただろう。  彼女が何も知らないことを、俺は昔、見合い話を持ち込まれた時に知ったのだ。俺の存在に気付いていたとしたら、のんきに見合い話など持ってくるはずなかったから。  こんな話を進められて身元がばれたりしたら面倒なことになると、心に決めた人がいるなど適当に口走ったが、おそらく俺の存在に社長が気付いたのは、その時からではなかったか。  それまで、社長が俺に向ける視線は、いち従業員への上司としてのそれでしかなかったから。  勤務先から婿養子にと望まれ、あっさり捨てた女の腹にいた子どもなどと、夢にも思わなかっただろう。俺が生まれてすぐに金を求めた母親を黙らせたのは、吹き堂の先代だと聞いている。こんな婿だと知っていたら娘と結婚させなかったものを、もう娘の腹には子どもがいる、まとまった金をやるから認知は諦めろと言われたと母はぶつくさと文句を言っていた。  見合い話で妻の愚痴を聞き、俺の存在を訝しく思い、調べさせたのかもしれない。あの頃から社長は俺に対し、不気味なものを避けるような態度を見せ始めた。そんな空気を幸樹さんも感じ取っていた。  陣さん、社長と何かあったの。  そう心配をしてくるこの人を、俺は嫌いではなかった。  長男だからという理由で、自分の夢も未来もねじ曲げて職人として邁進する姿を、好ましくさえ思っていたのだ。  跡取りという重責と不満を抱えている長男よりも、何の悩みも持つ必要もなく、ただ皆に坊ちゃん坊ちゃんと愛される次男の方が、はるかに癪に障った。 「博樹さんは何も知りません。私も、博樹さんに話すつもりはありません」 「お前が博樹に手を出したのは!」  社長が激高とともに前に出る。幸樹さんが立ち膝になった。 「俺に、うちに、復讐するためだろう!」  復讐。  そう思うのなら、この人は俺が、どんな生き方をしてきたのか知っているのだろうか。  毎日毎日殴られ腹を空かせ、本当の父親のもとへ行けば、助かるはずだ、殴られないはずだと願ったことを知っているのだろうか。  何のあてもなく保証もなく、父親は東京にいるという一言を信じて、盗んだ金で切符を買ったことを、電車に乗ったことを、知っているのだろうか。  世話になった和菓子屋が閉店することになり、紹介された店があの「吹き堂」、かつて母から聞いた実父の店だと知った時、俺の中にあったのは、復讐心などではなかった。  父親のいる世界を垣間見られるかもしれない。そんな好奇心だった。金沢の吹き堂と言えば老舗で有名である。職人の経歴に箔がつく。そんな程度だったのだ。  父親に俺の存在を分かってもらおうなどいう段階はとうに過ぎていた。 「……そんなものではありません。むしろ、それが理由だったら、楽だったのではないですか。社長も、俺も」  始めは、そうだったのだ。  高校生に茶など、何故俺が教わらなければならないのか。幸樹さんの勧めとはいえ、腹が立って仕方なかった。あんな、血も見たことがないようなガキ。苦労は全て兄貴に負わせ、のうのうと生きていくのだろう。憎しみや恨みも知らないまま人生を終えるのだろう。なんて恵まれた、脳天気な、弟。  何も知らない微笑みを、ぐちゃぐちゃにしてやりたかった。穏やかな声を、悲鳴に変えてやりたかった。そんなことを思うたびに、俺という人間には、やはり化け物が巣くい続けているのだと嫌悪した。  何故おれはこんな風に笑えないのか。何故俺はこんなふうに澄んだ目で人を見られないのか。  羨望が憧れになり、憧れが愛おしさになり、欲するようになったのは、どの時点からだったか。  チリ、チリ、と、博樹さんとの距離が近づくにつれて大きくなる警告音。  好意を向けられていると気付いた時には、頭の中に鳴り響いていた。眩暈がするほどに。間違えるな、俺はこの人を汚したくない、汚せない、俺の方に、引き寄せてはならない。  愛すれば、汚してしまう。どうあっても。  兄と弟である限り、博樹さんを穢してしまう。そんな戒めくらいは、持っていたのだ。  弟弟子が蔵で密会していたことを社長に話し、社長から呼び出されてすぐに首を告げられた。部屋を片付け、従業員に別れの言葉も言わず吹き堂を出た。だが、翌朝に帰ってくる博樹さんのことが気になって、早朝に忍び込んだ。  気が狂ったような社長の怒り。あれは、博樹さんに対してではなかろう。俺という存在に、過去の過ちに、怒り狂っていたのだ。大事な息子が毒牙にかかってしまった。後悔と、嘆きと、俺への憎しみで、ああしなければ頭がどうにかなりそうだったに違いない。 「お返ししようとはしたんです。けれど、駄目でした」  勇気を振り絞って、金沢に戻そうとした。だが放した手を握りしめてきたのは、博樹さんの方だった。  その時に知った、博樹さんの強さ。  こんな俺でも、まともに生きていけるかもしれない。この人の手を、放さなかったら。そう思った。 「お前達の関係は、許されることではない」  社長が地を這うような声を出す。 「男同士であるだけで狂っているのに。兄弟など、畜生の極みだ。お前は、人ではない」  憎悪で燃え上がる瞳。憎悪で人を殺せるのなら、殺せているかもしれない。  自分とこの父と、似ているところがあるのか分からなかった。博樹さんが、指が同じだと言った時に、まさかそんなところがと不思議に思った。  だが今、殺意さえ浮かべる瞳を見て、思う。もしかしたらこの父と俺は、ここが同じなのかもしれない。心の奥底に化け物を飼っている。 「博樹にお前が兄だと伝えたら、あれはどうなると思う。教えてやってもいいんだぞ。狂わせたいか」  金属か、硝子かが、擦られるような音。  玉と玉がぶつかって響き合うほんの一瞬。  玉響。  俺はその音をとらえながら、狂気を孕む社長の目を見据えた。
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