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三好陣 令和元年12月②
博樹さんに、和菓子職人を続けないのなら別れると告げられた日のことを俺は思い出した。
頭が真っ白になった時、浮かび上がってきた、己の中の化け物。
この人も、俺を捨てるのか。俺を見捨てた母のように、父のように、この人も俺を見限って捨てていくのか。
心にあったのは、憎しみよりも絶望だった。捨てないでくれ。俺を見捨てないでくれ。俺を愛してくれ。頭の中で鳴り響く音に抗うように叫び続けた。
手が、博樹さんの首に伸び、力が入る。ああ、俺は、捨てられるくらいなら、この人を殺して自分も死ぬ道を選ぶのか。
俺を見つめ続ける博樹さんの、涙を浮かべた瞳。俺の善性。俺の指針。俺の救い。俺の、全て。
俺の中の、狂気も異常性も悪も、全てを受け入れてくれると思ったのに。
そして気付いた。
この人に俺は、それを求めていたのか。
自覚したのと同時に、博樹さんへの、愛おしさがあふれ出した。こんな俺に、まだこんなにも美しい瞳を向けてくれるなんて。
好きだった。どうしようもなく。俺は、この人が好きだ。その想いが、化け物を、俺の中から消した。
今、俺と血が繋がっていると知っても、博樹さんは狂ったりはしない。
あの人が俺を受け入れてくれた覚悟は、そんな程度ではない。
ともに生きて二十六年。この境地に至ったかと、俺は己の奥底を静かに見つめられることに驚いた。
いつ博樹さんが金沢に去ってしまうのか、良識に抗えず俺から離れてしまうかと、焦燥にさいなまれていたのに。
「……どうぞご自由に。博樹さんがどんな道を選んだとしても、私はそれに従います」
本心だった。
博樹さんがどんな選択をしようと、俺はただ、あの人を一生愛し抜くだけだ。
一度、俺は我を通した。命に関わると言われ手術を勧められた時、吹き堂と勝負する機会を捨てることを拒否した。
あの時勝負を捨てていたら俺は、この二人に呼び出されても対峙できただろうか。
俺を捨て、俺を憎む父の目を、こうして見据えることなどできなかっただろう。
和菓子職人としての矜持を、俺はあの勝負を通して得ることができたのだ。もう俺は逃げも隠れもしない。親を恐れ逃げ続けた俺ではない。愛する者がいつ俺から去ってしまうかと脅える俺ではない。
博樹さんが言うように、この矜持が俺の善性になったとは、俺は思えない。永劫に、俺の善性は博樹さんのままだ。あの人がいるから、俺はこの世に留まっていられる。
この矜持は、生きる力だ。博樹さんが俺という人間に与えてくれたのは。自分を押し殺して、俺の我儘を許し、信じてくれたおかげで、俺は一人でこの世界に立つ力を得ることができたのだ。
そんな博樹さんに、俺が何を言えるだろう。何を求められるだろう。あの人がどんな人生を歩もうと、俺はそれに従う。
沈黙が広がる。もう、相手側から何の言葉も出てこないことが伝わってきた。
「……先程申し上げたように、私からは、博樹さんに言いません。死ぬまでこの真実を抱えていきます」
愛し信じ合える間柄でも、秘密を全て明らかにする必要はあるまい。
博樹さんとて、俺に言えない、話していないことがあるかもしれない。
俺は身動き一つしない社長に、最後に深々と頭を下げた。そしてそのまま席を立った。
先程よりも冷たい風が頬を通り過ぎる。足早に門へと向かう俺の背中に、叫ぶような声が刺さった。
「……陣さん!」
二十六年ぶりに聞いたその呼び声に、俺は思わず振り返った。幸樹さんは、先程まで能面のようだった顔をくしゃくしゃに歪め、声を繋いだ。
「……博樹……どうか、どうか博樹を……」
そこまで言って幸樹さんは頭を下げた。身体を二つ折りにして、背中がはっきりと見えてしまうほど頭を下げる姿に、こみ上げるものがあった。
この人にだけは、いくら詫びても詫びたりない。
俺に目をかけて、一緒に吹き堂を大きくしてもらいたい、と目を輝かせながら言ってきた人。
学もない常識も無い俺に、茶道を勧めてくれた人。俺から習うよりはいいだろうからと弟を紹介してきた。あの時の行動がこんなことになるなんて、一体どれほど自分を責めただろう。
弟を可愛がり、ともに事業を大きくする未来を夢見ていただろうに。
博樹さんが去ってからこの家は、地獄のような闇の中にあったのではないか。
復讐か、と思って当然だろう。
俺を罵って、俺を憎んで、弟を返せ、俺の家族を返せと叫んでもおかしくないのに。
言葉を探しかけたが、何を言ってもただ風に吹き飛ばされるだけだろう。
優しい風は、俺とこの人たちの間には、永劫に吹くまい。
俺は、頭を下げ返すしかなかった。
何の言葉も出せず、ただ頭を下げ続けるしか、詫びも、博樹さんへの想いも、伝える方法がなかった。
俺が頭を上げた時、幸樹さんはまだ頭を下げていた。
その背中が震えているのを目にしながら、俺は及川家の門を出た。
そしてそのまま、一度も振り返らず、駅に向かった。
◇◇◇
東京駅に到着した俺は、家に戻らず、ある店に向かった。
昨日、メールに連絡が入ったのである。一刻も早く博樹さんの顔を見たい気持ちがあったが、今日を逃すと来週になってしまう。クリスマスに洋菓子屋と張り合ったところでどうしようもないので、俺の店では特に何もしないが、来月からは年始の挨拶用や初釜の予定が立て込んでいる。暮れにさしかかる前に店に行きたかった。
「いらっしゃいませ」
男性と女性、ふたりでデザインして装飾品を作っている店である。昔、弟子の宮本が結婚した時にこの店で指輪を買ったと話していたのだ。結婚十五年の節目にまたねだられたのだというぼやきを耳にし、、宮本の奥さんでうちの敏腕フロアマネージャーに店を聞き、教えてもらった。
「時間がかかってしまって申し訳ありませんでした」
売り子ではなく店主の男性が奥から指輪を持ってきた。
俺は店主が指輪を持って説明する指先を見ながら、気になることを口にした。
「あの、もしもサイズが合わなかったら、直すのは可能と女性の方に聞いたのですが」
「はい、それは大丈夫ですよ」
男性は穏やかに微笑んだ。
「内緒にされる方は多いですから。……ご主人のほうだけでも、サイズを確認してください」
指輪の大きさから、女と男ではないと気付いているだろう。だがそんなことはどうでもよかった。
「俺はどうせつけませんから……」
「えっ、そうなんですか」
しまった、作らせておいて失礼なことを言ったとすぐに付け加えた。
「職人なので、装飾品は身につけられないんです。ただ、形になる物を渡したいという我儘です。相手は……つけてくれたらいいんですけど」
申し訳ない、と伝えると店主は慌てて手を振った。
「いえ、こちらこそすみません。それで、二つ重ねて形になるデザインになさったんですか」
これも深い考えがあったわけではない。しかしそうですね、と肯定しておいた。
ポケットに指輪の箱を入れて帰途につく。人と人と間を通り過ぎる隙間から吹き付けてくる東京の風は、冬だというのに生温かく感じた。雑多な人間の熱を含んでいるようである。だからか、これから抱きしめる人の体温を恋しく思った。
「お帰りなさい」
マンションの玄関の鍵を開けて、博樹さんは微笑んだ。予想していた通りの笑顔なのに、俺はたまらなくなって抱きついた。
「こおら、陣さん。手洗いうがいを先にしなさい」
コートを脱ぎ、言われたとおりに洗面所に行く。
「陣さん、会合はどうだった~?」
食事の準備の音を立てながら、博樹さんが訊いてくる。今日は東京の和菓子職人が集まる会合に出ると伝えていたのだ。俺はそれに答えずに、台所の博樹さんに声をかけた。
「博樹さん」
振り返った博樹さんが、おっ? という顔をする。俺が後ろ手に何か持っていることに気付いたのだろう。
「お土産?」
「ええ、まあ、そうですね」
「どこのお菓子かなあ」
小さい箱を差し出すと、博樹さんは怪訝そうな顔をした。ソファに座らせ、博樹さんの手の上に箱をのせ、小さなリボンを解いていく。
白い指輪ケースが現れる。開くと、銀色の指輪がふたつ収められていた。
「はめてもいいですか?」
博樹さんは無言だった。左手を取り、薬指に指輪を滑らせる。薬指が長いところが同じだ、と呟いた、高校生だった博樹さんを思い出す。俺と博樹さんの身体で、唯一同じ箇所。その無邪気さに、胸が掻きむしられる思いがした、二十六年前の冬。
指輪は、緩くもなくきつくもなく、ぴたりと博樹さんの薬指に入った。眠っている間にそっと確認していたが、直さなくてすみそうである。
「よかった。ぴったりですね」
「……この筋……」
指輪に彫られている筋を、博樹さんは指した。俺の指輪と筋の箇所が違うのでデザインを不思議に思ったのだろう。
「ああ、これ、重ねることができるようになっているんですよ」
宮本夫婦の指輪の裏に誓いの言葉が彫られているのを聞き、指輪を重ねた時にぴたりと合わさるようにならないか頼んでみたのである。
博樹さんの薬指から指輪を外し、俺のそれと重ねる。合わさる時に、チリ、とまたあの音が頭に鳴り響いた気がした。玉と玉が触れあう、一瞬の音が。
だがそれはすぐに俺の頭の中から消えた。目の前には、ぴたりと重なった指輪があった。もう、音は鳴らない。
「ね。溝ができているので、うまく合わさって……」
俺の手の中にある合わさった指輪を見て、博樹さんの瞳からはたはたと涙がこぼれ落ちた。指輪に、博樹さんの涙が注がれる。
「……陣さん」
二つの指輪を見つめながら、博樹さんが俺の名を呼んだ。
「はい」
「……陣さん……」
博樹さんの腕が、首に回される。
抱きついているのか、抱き締めようとしているのか、分からない抱擁だった。
「……愛してます」
俺の口から、無意識にこぼれ落ちた言葉があった。
何度も何度も口にしていたはずなのに、なぜか、今初めて告げたような気がした。
やっと、告げられたような気がした。
「永遠に……あなたの傍にいます」
俺の首筋に顔を押しつけたまま、博樹さんが何度も頷く。
俺は二つの重なった指輪を握りしめながら、博樹さんをいつまでも抱き締めていた。
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