舎人と皇子

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舎人と皇子

 後方の息づかいが次第に乱れてくるのに舎人(とねり)は気付いていた。山の傾斜はずっと急な勾配が続いている。獣しか通らない道は足場が悪く、膝を刺してくる樹木の枝を剣で払いながら進んでいた。足を止めるか。それとももう少し奥へ進むか。そんな逡巡は主の声によって遮られた。 「もう、ここまで来たらいいだろう」  見晴らしの良い場所へ抜けたところで丁度良い切り株を見つけた主人は、大きく息をついて腰を下ろした。眼下に広がる蚊屋野(かやの)の風景を見渡す。 「いい季節だな」  ありとあらゆる朱が山を染めていた。山間にわずかに見える黄や緑さえ、落ちかけている夕陽によって色を変えられてしまっている。  止まることのない紅への変化。舎人の目には、ここ数年の間に流れた血を連想させた。あの男は、どこまで殺せば己の帝位に安堵するのか。  そして今、流されようとしている皇子の血で、それは止まるのか。舎人は果てしなく続く大和の山を見つめた。 「ここでいいんじゃないか」  澄んだ目に紅葉を映し出した皇子が呟く。 「大王に俺を殺してこいと言われたんだろう」  同腹の兄皇子をことごとく陥れ、謀殺の果てに帝位に即いた大王が最も危険視しているのが、亡き先帝が次の帝にと考えていた、この従兄弟皇子である。  邪魔者を問答無用で殺害している大王が、従兄弟を放っておくわけがなかった。主人は争いを好む人間ではない。大王が望むのなら何も抵抗せず蟄居しただろう。  だがそれゆえに葬りたくなるのだと、舎人は大王の気持ちが手に取るように分かった。分かりやすく牙を剥いてくれたほうが、憎しみなど持たなかっただろう。品行方正、誰からも信頼され、愛されてきた従兄弟を殺してやりたいと憎む大王の感情のほうに、舎人は共鳴していた。  荒々しさを疎まれ、憎まれてきた者の気持ちなど、主人には分かるまい。  主人は大王に矢を放たれて穴があいた袖を広げた。馬が避けなかったら命中していただろう。 「狩りに誘ってきた時から、大王が俺を殺すつもりなのは分かっていた。……しくじった時にはお前が殺すようにと命じられていたのか?」  主人の黒曜石のような瞳に、紅色が滲む。 「……どれほど血の色を見ていても、紅というのは美しく感じてしまうものだな」  主人の唇が微笑みを形作る。そこからわずかにのぞかせた押歯(八重歯)を、舎人は見つめた。  気品が溢れ物静かな佇まいであったが、この押歯があることから愛嬌のようなものが備わっていた。微笑むだけで人を安堵させる。皇子、という身分であるにもかかわらず、近づきたいと思わせてしまうのだ。  だからこそ自分も、こんな感情を抱くようになったのだと舎人は剣の鞘を握りしめた。  主人は切り株に腰を下ろしたまま、首飾を外した。  首を落とされ首飾が砕け散るのを避けるためだろう。妃に渡して欲しいと伝言するつもりだろうか。舎人は差し出された首飾に目を向けた。 「お前にやる」  舎人は瞬きもせず、主人の微笑みを見つめた。  三つの翡翠(ひすい)勾玉(まがたま)と、それを繋げる玉髄(ぎょくずい)管玉(くだたま)。磨き抜かれたそれから、舎人は目をそらせなかった。光り輝く翡翠が、目を見開いている自分を映し出す。 「私を殺したら、すぐに逃げろ。大王はお前のことも見逃すまい」  舎人は勾玉から目を上げ、主人を見据えた。皇子の口からは、押歯は消えていた。絶対に言わないでおこうと思っていた言葉が、己の口から突いて出る。 「俺が、誰なのか、分かっているのか」  主人の瞳が再び細まる。 「お前は生き延びろ。御馬(みま)」  知っていた。舎人は激情に突き動かされるままに、唸り声を上げながら剣を抜き頭上にかざした。  その名は、単なる名称であり、自分がその名で存在したことは一度も無い。  双子の弟として生まれ、忌み子として捨てられたから。  兄のほうは助かった。皇后から誕生した男子を二人も捨てるのが、帝である父も惜しかったのだろう。  捨てられた自分は、家臣の家で育てられた。。もしも帝の皇子が、忌み子として捨てられた弟の存在を知り、会おうと思わなかったら、そのままただの舎人としての一生を終えたのだ。  誰にも言わずに会いに来た双子の片割れは、自分の首飾を外し、そこから翡翠の勾玉を一つ抜き取った。  兄弟の証だ。自分が帝位についたら、必ず迎えに来る。  美しい衣装を纏い、艶やかな美豆良(みずら)を耳の下で結い、兄は微笑んだ。  拾われた家で下男並みの扱いを受けている自分の、黒ずんだ手を握りしめてそう言った。  残されたのは一つの翡翠の勾玉。兄の肌の温みを失わないそれを、何度叩き割ろうとしただろう。  何故、俺のほうだったのだ。  何故捨てられたのが俺で、父帝のもとに残ったのが、皇后の母のもとに残ったのが、兄だったのだ。  何故忌まれたのが俺だったのだ。同じ双子だったのに。もとはこの勾玉のように、同じ母の腹の中にいた小さな胎児だったのに。 「いつから……いつから、知っていた」  舎人は絞り出すように声を吐いた。ともすれば獣の咆哮になりそうな声を、人間に届くような音に変える。  初めて会った頃の少年の面影など、もう自分にはなかろう。独りで剣を磨き、生い立ちを完全に絶ち、泥を吸い血にまみれて生きてきた。どんな汚いことでもやった。自分からお前に近づくために。お前が来るのを待ちはしない。俺から現われてやる。その一念だけで生きてきた。  そんな呪いを、大王は感じ取ったのかもしれない。あの男がどこまで知っているか知らない。皇子を殺す駒の一つとして、屋敷に舎人として働けるように便宜を図られても、近づける目的を手に入れられて良かったとしか思わなかった。次の帝位を巡る骨肉の争いなど知ったことではなかったのだ。もともと自分はそんな場所にはいなかったのだから。争いにまぜてもらえる位置から、捨てられたのだから。  ただ、兄を殺せれば良かった。その押歯に触れて、誰からも愛される歯に触れて、絶望に歪む顔を見つめながら呪いの言葉を浴びせることができるなら、それで良かった。  兄者。  あなたのその歯は、もしかしたら双子の俺にもあったかもしれない。  だが見てくれ。俺にはそんな歯は残っていない。  時に岩を食み、剣を食らってきたこの口の中はもう、老人のようにぼろぼろだ。  あなたのように、微笑めば白さがこぼれるような口ではない。  血を吸ってきたこの口の中はもう、闇しかない。真っ黒な口内から、欠けた歯の隙間からこぼれる声は、獣ような醜い音にしかならない。 「ずっとだ。お前が私の前に現われた時から」  微笑みとともに白い押歯が。すぐ触れられる位置に、あの白さがある。 「先帝が私を次の帝にと望んでも、大王がそれを承諾するとは思えない。先帝が謀略の果てに亡くなったのも、全て大王の筋書きだろう。私を殺すために、今まで従兄弟が皆殺されていったのだ。私を殺しに来るのは誰か、私はもう何年も前から覚悟していた」  戦う力などなかったから。敗北は既に、自分の中で決めていた。 「……どれほど探しても、お前の行方は分からなかった。大王のほうが先にお前を見つけ出して、私のもとに寄越してくれるとは、これだけはあいつに感謝しなければならないな。矢も避けられてよかったよ。大王の手にかかるのだけはごめんだ」  瞳が細められる。そこから滲む光がなんなのか、舎人には分からなかった。  一度しか見たことがない光だったから。兄が、自分に会った時に見せた光。 「死ぬのなら、お前の手にかかって死にたかった」  舎人は唸り声を上げ、主人の首に手をかけた。  俺が望んだのは、お前の恐怖と絶望に歪む顔であって、そんな笑顔ではない。  俺に殺さないでくれと懇願するお前で、俺の手にかかって死にたいと望むお前ではない。  俺は憎んでいたんだ。ずっと。ずっと。ずっと。ずっと。  俺とともに生まれ、父に許され、母に求められ、かしずかれ、愛されてきたお前が憎くて憎くてその思いだけで生きてきたんだ。  なぜ、それすら、絶つ。  何故最後まで憎ませてくれないのだ。 「御馬……」  兄の瞳から滴が流れる。 「許せ、俺は、お前が」  木の影の揺れで、舎人は我に返った。  兄を後方に放り投げ、飛び出してきた賊の剣を受ける。次々と樹木の間から現われた連中を、舎人は睨み据えた。  大王め、やはり俺を信用していなかったか。それともこれらは俺を殺す刺客か。  賊が兄の方へ飛びかかるのを、舎人は獣のように吠えながら止めた。  誰も触るな。  兄者は、俺のものだ。  俺のものだ。大王にも、誰にもやらない。兄者は、俺だけのものだ。  血を受け、流し、狂ったように剣を振り回し、賊と一緒に木をなぎ倒しながら、舎人は叫んだ。  兄者、兄者、兄者。  最後の一人の首を地に落とした時、舎人は己が人としてどんな様態を残しているのかすら分からなかった。唸り声を上げながら、兄の元へ這う。  兄の身体は、すでに地に伏せていた。  俺のものだ。俺のものだ。兄者。俺が、殺すのだ。俺が、手にかけるのだ。  兄の身体を抱き上げようとした時、もう己が片腕しか残っていない事に気がついた。兄者、と呼びかけた時、カチリ、とかすかな音が胸元から響いた。  兄の首飾に重なっているのは、自分の首にかけていた首輪だった。  兄が昔、自分の首輪から一つ外してくれた、勾玉。  胸元を切り裂かれても、それを結んだ革紐は切れていなかった。何度も何度も捨てようとした翡翠が、兄の首飾の勾玉と重なっている。二つの勾玉は、その色も、輝きも、変わらなかった。  いつか必ず、結ばれよう。そう言って兄が己の首飾から外し、渡してくれた時と、変わっていなかった。  何度も汚れた手で握りしめ、血に染まり、もう鈍い光しか放っていないと思っていたのに。 「兄者……」  兄は、まるで眠っているようだった。美しい顔で、安らかな眠りについているように見えた。唇は閉ざされ、微笑みを形作らない。押歯は、見えない。 「兄者……」  自分に向けられた微笑みは、もう、見えない。唯一であった光は、もう、見えない。  聞こえるのは、勾玉が重なる音だけだ。カチカチと重なっては消える、淡い、儚い音だけ。  舎人は獣のように泣き叫びながら、その音をかき鳴らすように、兄の身体を抱き締めた。  赤子のように、兄の顔に己の顔を擦りつけ、揺らし、抱擁した。  二人の間からこぼれる、玉と玉が重なり合っては消える音を、己の身体が動かなくなるまで、奏で続けた。
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