第一章『春と人魚』

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 十分後、やっと理不尽な暴力から解放されたオレは、顔を泥まみれにして、鼻から血を流しながら蜜柑の木の下に正座させられていた。  女は「まったく!」と、オレからはぎ取った学ランの上着を使って、自分の顔面に付着した蜜柑の果汁を拭き取っている。 「あの…」  オレはそっと手を上げた。 「さすがに、やりすぎじゃないですか?」 「ええ? なんで? あなたが蜜柑をぶつけて来たから報復しただけじゃない。因果応報って言葉を知らないのかしら?」  旅人は先ほどに比べて、随分と女らしい口調に戻っていた。  近くで見ると、やはり若い印象だ。声の質とか、頬の張りといい、十八歳くらいだろうか? 「まったく、信じらんない! 人に蜜柑を投げる奴があるかしら! 乱世なんて、果物なんて高級品よ? 私、食べ物を粗末にする人が一番嫌いなのよね!」 「人に暴力振って、みぐるみを剥ぐ人は嫌いじゃないんですか?」 「大っ嫌い」  旅人は、蜜柑の汁でべたべたになった学ランをオレに投げた。 「だめだわ。べたべたが取れない…、着物にもついちゃったじゃない! これはもう捨てるしかないわね。あーあ、結構気に行ってたんだけどなあ。もう佐々木さん生きてないのに…」 「ごめんよ」  まあ、投げたのは俊介だけどな。  すると、女は思い出したように手を叩き、オレの顔にぐっと顔を近づけてきた。  水晶のようにころんと透き通った目を視線が合う。  オレは心臓がどきっとするのを感じながら、女の話に耳を傾けた。 「あなた、この村の人間でしょ? 少し聞きたいことが…」 「うううううううううん、そうだけど…」 「動揺しすぎでしょ!」  俊介と同じつっこみ。  女は呆れたような顔をして、もう一度聞いた。 「いい? あなたは、この村の、人間、でしょ?」 「そそそそそそそそうだよ」 「あい、わかった。この村の人間じゃないってことね。邪魔したわね」 「いやいや! この村の人間だから! ちょっとシャイなだけだから!」  オレは踵を返して立ち去ろうとする女を引き留めた。 「オレの名前は、笠本克己。この村の人間だよ」  その証拠にと、オレは学ランの袖に着いた校章を女に見せた。すぐ近くにある中学のものだ。  オレがこの村の人間であることを確認した女は、「そう、よかった」と、蜜柑の汁で汚れた胸を撫でおろし、オレに名を明かした。 「そう、よかったわ。私は天野。旅人よ」 「旅人…? 四国参りの礼所なら、下の道を戻って、まっすぐ行けよ。あんたが進んでいた道を行ったって行き止まりだ」 「誰が四国参りの話をしているのよ」 「いや、その恰好、完全に四国参りだよな?」  着物に、藁で編んだ傘。おまけに錫杖ときたもんだ。 「馬鹿ねぇ。四国参りなんて、大昔に回っているわ。今みたいに、道路が舗装されていない時代にね」 「さっきから何言ってんの?」 「話が聞きたいって言っているの!」  天野と名乗った女は、オレの額を思い切り小突いた。 
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