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天野と名乗った女は、オレの額を思い切り小突いた。
オレは背中から地面に倒れこむ。
すぐに天野さんの腕が伸びてきて、オレのポロシャツの胸ぐらを鷲掴みにした。ぐいっと引き寄せられる。彼女の端正な顔は、悪意に満ち、にいっと笑っていた。
「あなた、『バニバニ様』って知っている?」
その「バニバニ様」という言葉は、雷撃のような勢いを持ってオレの右耳から左耳を貫いた。
「バニバニ様…」
「そうそう、この村に来る途中で知ったんだけど、なんか、この土地の神さまらしいじゃない?」
「ああ、バニバニ様ね…」
オレは裸で民衆の前に放り出されたときのような羞恥心に襲われて、天野さんから目を逸らしていた。オレの動揺に気づき、天野さんがオレの胸ぐらを掴む手の力を強めた。
「なにか知っているの? もしかして、その神様を祀っている神社があるのかしら?」
「うーん」
これ、旅人に言っていいのかな?
オレが「バニバニ様」について、天野さんに話すべきかどうか言い淀んでいると、突如、畦道の方から男の怒鳴り声が聞こえた。
「くおらあ! この疫病神めッ!」
はっとして、天野さんから視線を逸らして畦道の方を見ると、鎌を持った爺さんがオレたち、もといオレだけを睨みつけていた。
「なにワシのミカン畑に入ってやがる! さっさと出ていけやあ!」
鎌を振り上げて、今にも斬りかかって来そうな爺さんを見て、天野さんは怪訝な表情をした。
「なにあの人? 人のことを疫病神って、失礼な。まあ、飢饉の時代は余所者は迫害されていたけどさあ」
「いや、天野さん、あんたのことじゃない」
「はあ? じゃあ、あんたのこと?」
「うーん、オレはそのつもりはないんだけどなあ…」
とにかく、ここにいたら危ないな。
オレはすくっと立ち上がると、天野さんの手を引っ張った。
「とにかく、離れようぜ。あの爺さん、マジで人を殺しかねないから」
「ええ、戦国時代じゃあるまいし」
「さっきから何を言っているんだ?」
振り向けば、爺さんは年寄る波をものともせず、舗装されていない柔らかな小道を勢いよく上ってきていた。顔を真っ赤にして、喉の奥から蒸気機関車のように、シューシューと荒い息が洩れている。
爺さんから本物の殺気を感じ取った天野さんは、さっと顔を青くした。
「ええ、なによ、あの爺さん。完全に殺しに来ているじゃない!」
「そういうこと!」
「え、どういうこと?」
オレは天野さんの手を引いて、だっと駆け出した。
幼い頃から俊介と山の中を駆けまわることで鍛えた脚力を使って棚田を駆け上がると、藪の中に突っ込んだ。藪の奥は草が踏み固められていて、細い獣道のようになっている。オレは天野さんの手を握ったまま先導して、なるべく爺さんから距離を取るようにした。
数百メートル、駆け上がったり、駆け下りたりして、何とか逃げる。
さすがに藪の中までは追ってこなかった。
逃げ切れたことに安堵してため息をついた瞬間、遠くから、爺さんの悔しがる叫び声が響いて聞こえた。
「この疫病神があッ! 殺してやる! 殺してやるッ!」
あーあ、また言ってるよ。
オレは、握っていた天野さんの手を離した。
「それで、なんなの? あの人は、この村は?」
天野さんは少し息を切らしながら、手頃な木にもたれかかって聞いてきた。
「平気で殺人鬼が現れる村なのかしら?」
「何もない村だよ」
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