第一章『春と人魚』

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「平気で殺人鬼が現れる村なのかしら?」 「何もない村だよ」  オレも木の幹にもたれかかって、息を整えながら天野さんに説明した。 「何も無い村だ。観光資源も、観光地も何も無い。ミカン畑だって、酢橘だって、あとうどんとかカツオ養殖も、近隣の県の真似をしているだけさ。これと言った特色のない村だよ」 「ふむ」  オレにバニバニ様について聞いてきた時は、心なしか輝いていた天野さんの目が、少しずつ曇っていくのがわかった。 「何も無い村ね。確かに、他の県とか村と突出した点が無いのは気になっていたけど…」 「それで、あんたがさっき聞いてきた、『バニバニ様』についてだ」 「うん!」  身を乗り出し、興味津々に聞いてくる。  オレはその期待をなるべく優しく壊すように言った。 「その話、何処で聞いたんだ?」 「何処って、この村に入る道路があるでしょ?」 「うん」 「端に、小さな看板があって、『黒河村 不老不死の神 バニバニ様』っていう新聞記事の切り抜きが張ってあったのよ」 「ああ、あれかあ…」  あれか…。 「全部撤去したつもりだったのに、残っていたのか…」 「さっきからなによ」 「ごめん」  きっと、天野さんはあの張り紙を見て、「不老不死の神」に惹かれてこの村にやってきたのだろう。確かに、あの新聞記事が出た当時も多くの考古学者が、休日を利用してこの村を訪れて、観光だが調査だかわからないことをして去っていったものだ。 「あれ、嘘なんだ…」 「うそ?」 「うん。嘘」 「イタチ科の?」 「それはカワウソ」  残念そうな顔をするかと思いきや、天野さんは「ああ、いいのよ」と手をぱたぱたと振った。 「そりゃそうよね? 本当に信じているわけじゃなかったわ。昔の人って、自分たちに都合のいいことしか伝記に書かないものね。伝承なんて噓八百が当たり前…」 「いや、そういうんじゃないんだよ」  天野さんの言葉を遮るようにしてオレは言った。 「伝承とか、伝説とかじゃなくて、あれ、本当に嘘なんだ」 「だから、何が…」 「あれ、オレの親父がついた嘘なんだよ」 「え…」
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