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梅雨入りから3日。しとしとと降り続いた雨で、ビルもアスファルトも空気も、全てが湿っぽく重い朝。大学へ向かう道すがら、古びた家の玄関先で、鉢植えの紫陽花を見つけて、大槻はふと足を止めた。どんよりとした鈍色の空とは対照的に、青く艶やかな葉を広げ、薄青い爽やかな花を目一杯咲かせたその鉢は、ちょっと目を引く華やかさだった。
雨は好きだ。記憶の中で、雨は、湿気を含んで重たい空気と、濡れて匂い立つ土の香り、無限に続く蛙の合唱、そして、青に赤に咲き乱れる紫陽花の色と一緒くただ。今よりも低い位置にある視界の中に、水溜りは海にも似た広大さで広がり、流行りのキャラクターが描かれた青い傘と長靴が嬉しくて、心が躍る。バシャンと飛沫をたてて水溜りを蹴り上げると、手を繋いで歩く祖母が笑い声を立てる。祖母のズボンも長靴も、田んぼの黒い土で汚れていて、繋いだ手は乾いて暖かかった。田舎の紫陽花は背が高く、密集して咲いたてまり咲きの花が、弾力のある枝をしならせ、満ち満ちたエネルギーそのままに、自由奔放に伸び散らかした枝葉の力強さそのものが、曇天に咲き誇る紫陽花の本性だった。
祖母と共に暮らしたのは、ほんの二年ほどの間だった。連日の喧嘩の末両親は離婚し、大槻は母に引き取られたが、田舎を嫌って実家を飛び出した母は、身の丈に合わない都会暮らしを続けるために、昼も夜も働くようになった。深夜、誰もいないワンルームで目覚めたときの、骨の髄まで染み入るような寂しさは、あれから15年経った今でも、鮮明に思い出すことができる。幼い大槻は、暗闇から逃れるために、布団に潜り込んで固く目を瞑り、静けさの向こうから届く自動車の音に耳を澄ませ、不安が眠気に変わるのをひたすらに待ち続けた。長い夜の間には、世界が動きを止めてしまったかのように、不思議なほど静まり返る瞬間があり、そんな時には、物陰に何某かが隠れているのではないかという妄想に憑かれて布団に潜り込みたいのに、身を隠したら暗闇が自分を覗きこもうと布団を捲り上げるのではないかと思うとそれもできず、忍び寄る孤独と恐怖に耐える、永遠のような時間を、息を詰めてやりすごす日々だった。
そんな日々の最中、祖母は突然、大槻の前に現れた。ある夜、なんの予告もなしにアパートを訪れた祖母は、ばあちゃんだよと言い、しわくちゃの顔をさらにしわくちゃにして、ニィと笑った。目元が少し、母に似ていた。祖母の隣に立つ母は、不機嫌を隠しもせずに祖母を睨み、その目をそのまま大槻に向け、ママかこの人か、どちらかを選べと言った。ママとここで暮らすか、この人となーんにもない山奥で暮らすか。母の言葉に祖母は眉を顰め、そうじゃないだろと諌めた後で、再度ニィと笑って大槻に言った。理玖は今幾つ?5歳。5歳か。大きくなったなぁ。理玖がまだ生まれたばっかりの頃、ばあちゃんのとこに来たの。覚えてる?分かんない。ふるりと首を振った大槻に、祖母はそうだよなぁと応じ、一人で寝るのは寂しくないかと問うた。祖母の目元の優しさと、今まで口にしなかった本心を言い当てられた驚きが相まって、一瞬警戒が解けた。寂しいと頷いてしまってからハッとして母を窺うと、彼女は不貞腐れた様子でそっぽを向いており、大槻は慌てて首を振ったが、一度それた母の視線はもう、大槻を向くことはなかった。その後、ママがいいとごねた大槻を宥めたのは祖母の手で、祖母が東京のアパートに泊まり始めて1週間後には、母は全く家に帰らなくなり、大槻は祖母に連れられて、黄金の稲穂が一面に広がる晩夏の大地に降り立った。
以来、大槻の意識は、事あるごとに彼の地に飛び、紫陽花の代わりにこの身にのしかかる巨大なビル群を見上げる時、理由のない寂寥感が足元からぞろりと上り、心臓の辺りをぎゅうと締め付けるのだった。
そうして、大槻は今もこうして、都会の紫陽花に目を止め、名前のつかない感情に胸を灼かれて嘆息する。鉢植えの紫陽花から視線を外し、水はけの良いアスファルトの硬い地面を、汚れひとつない靴で踏み締めたその時、背の高い紫陽花の幻影を見、養分を含んだ土の匂いを嗅いだ気がした。
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