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結論からいえば、店には入れなかった。
「……6時閉店って早すぎるだろ」
大槻の車が駐車場にたどり着いたのがちょうど閉店時間で、店の前の賑わいは、滑り込みで買い物を終えて戦利品を前に談笑する、ツアーバスの一団だった。
おかげで、隣の男は少なからず不機嫌で、さてどうしたものかと、思案しながら車を走らせる。
「コンビニに土産コーナーあるんじゃないですか?蒲鉾も買えるかも」
「コンビニじゃ旅行感ない」
無意識だろう、唇を突き出したまま今野が発音した、「旅行感」という言葉の舌足らずな響きがおかしくて、思わず笑うと、不満顔の同乗者がぱっとこちらを向いた。
「いいとこ泊まろう。金出すから」
笑ったことを責められるのかと思い、慌てて口元を引き結んだところで、今野の言葉が耳に入り、答えるまでに1秒、間が空いた。
「……いいとこって?」
「いい飯食えるとこ。あと温泉あるとこ」
なるほどと思う。なるほど、この男の旅行感とは、そういうものか。
ならばと思う。ならば、今朝、伯母に断りの連絡を入れたあの旅館に泊まれたら、今野は喜んだだろう。立派な部屋懐石に、広々とした大浴場。ホームページには、家族風呂が9種類とあった。中居の出迎えで客室に向かう。あの旅館は、今野の言う旅行感にぴったりだったはずだ。
「……いい飯は、どうかな?食材の準備とかもあるだろうし……ああ、でもあれかな。でかいホテルでバイキングとかならいけるかな」
「……バイキング……酒飲める?」
「飲めると思いますよ」
思案顔の今野を盗み見る。ころころ変わる表情が面白い。サングラスはかけっぱなしで、目元の動きは見えないのに、口元や頬の動き、仕草や声のトーンから感情が滲む。ううんと小さく唸りつつ、手元の携帯に目を落とす。今夜の宿を検索しているらしい男から視線を外し、木々の緑に目を転じる。山を切り開いて作られた温泉郷は、人口と自然が混ざり合い、不思議と人をほっとさせる。直線的な人口にも、荒ぶるばかりの自然にもない、微妙な暖かさがある。
今朝、行けなくなったと連絡を入れた。電話では言いにくくて、メッセージで伯母に伝えた。それから、兄にも。結婚祝いも兼ねていたから、ごめんなさいと送った。理由は書かなかった。というよりも、書けなかった。説明できるような理由もない。青い目の男に出会った。だから、旅行には行けない。そう説明したところで、多分、伝わらない。大槻自身でさえ、恒例の家族旅行をドタキャンしてまで、別段乗り気でないこの男を連れ回そうとした自分の意図が分からないのだ。誰かに理解してもらおうという方が、土台無理な話だった。メッセージを送ってから、携帯は見ていない。青い目に誘われて、半ば強引に人1人を連れ出した朝の勢いが、人口物と自然の狭間で絆されてゆるゆると退いた今、トランクに積んだ旅行鞄の中で、服の間に挟まっている携帯を見るのが憂鬱だった。
「……次の信号左」
唐突な一言で、大槻の物思いは乱され、どんよりと重たく胸の内を占めていたはずの憂鬱が揺れ動き、輪郭がぼやける。
少し遅れて了解と応じ、カーナビで、カーブの向こう側、300メートル先の信号を確認する。
「泊まるとこ、見つかりました?」
都心の道ではあまり見かけない、地形をなぞるようなカーブに沿ってハンドルを切りながら問うと、曲がったらそのまま真っ直ぐね、と早口の答えが返ってきて、直後には、今日これから泊まれます?と、ほんの少しトーンの違う、よそゆきの声が続いた。2人です。出来れば夕食付きがいいんですけど……。電話の向こうの誰かと話す今野の声を聞きながら、そういえば、怪我人にアルコールは大丈夫だったかとふと思う。痛々しいほどの腫れは、冷やして眠ったおかげかだいぶ引いてはいるが、顔半分の腫れぼったさは残っていたし、口の端は口角炎のような切り傷になっていて、話をしている間にも、時々痛そうに眉を顰めていた。あの様子だと、口の中も切れているはずだ。食べるのも飲むのも億劫だと思うが、今野は今、怪我も、今朝の出来事も、なかったかのように振る舞っていた。話す言葉も雰囲気も、まるで本当に、友達と旅行にでも来たような気軽さだった。
今朝車に乗り込んだときは、こんな風ではなかった。半ば無理矢理に押し切って、車に押し込んだ自覚がある。日用品や服を買い回っている間も、今野は、必要なこと以外はほとんど話さなかった。問えば答えは返ってくるが、肌がぴりりとするような警戒心が常時大槻の表皮に触れていて、野良猫のように、臆せず近付いてくるくせに、こちらから手を伸ばすと噛みついてきそうな雰囲気があった。それが、鈴廣に行きたいと言い出してからこっち、今野の肩からはすっかり力が抜けていて、ぴりついた気配も、全くなりを潜めてしまった。
「……じゃあそれで。30分かからないと思います」
締めくくりにそんな言葉を口にして、今野が耳元からスマホを外し、短くひゅうと口笛を吹いた。
「和室、部屋食」
「へぇ。取れるもんですね」
「当日キャンセルあったから、たまたまだって」
運が向いてた、と彼は言い、少し先に見えてきたカーシェアの黄色い看板に視線を走らせて、20分くらい歩くかもと付け加えた。
「一泊いくら?」
「いちまんごせん」
今野の少し舌足らずな発音を、15,000と、脳内で数字に書き換えてみたが、宿泊代金として妥当なのか高いのか分からず、大槻はふうんと曖昧に応じた。
「……自分の分は払えますよ」
「いいよ、別に。学生なんだろ」
車代も運転もそっち持ちだし、と言って今野は黙り、大槻は、ありがとうございますと応じて、苦手なバック駐車に集中した。
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