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「……へぇ」 買い込んだ荷物を全て抱えて、緩やかな斜面を10分登った先に、今夜の宿があった。 「良い感じですね」 歩くうちに19時を回り、薄墨色に染まり始めた空を背景に、オレンジ色の光をこぼす大きな窓がいくつも並ぶ様は壮観だった。カーテンを閉めていない部屋もちらほらあって、光の揺れの中に、人の蠢きが見て取れた。ちらりと隣を窺うと、サングラスを外した目で建物を見上げる今野の姿があり、運転中と違って、大槻よりも少し上にある頭を見上げるアングルが新鮮だった。 「……うん、良い感じ」 青い目がこちらを向いて微笑む。片頬が動かしにくそうで、やや歪ではあるものの、目尻にシワが寄る笑顔には愛嬌があって、こんな顔もするのかと意外に思う。 「夕飯、何時からですか?」 「一番遅くて8時」 「じゃあ一番遅くがいいな。先風呂行きたいし」 分かったと頷いた今野を追ってエントランスをくぐると、笑顔のスタッフがこんばんはと出迎えてくれた。 「さっき電話したんですけど…」 今野が話すのをぼんやりと聞き流しながら、ロビーをぐるりと見渡し、その一角に、大きなソファがいくつも並ぶレストスペースを見つけ、ふらりとそちらに足を向けた。荷物を持ったまま腰を下ろすと、座面はふんわりと柔らかく、ちょっと驚くくらい身体が沈み、立ち上がれなくなった。チェックインカウンターに案内されてゆく今野の後ろ姿を目で追いながら、思いの外疲労していることに気付く。なんとなく、体が重い。考えてみれば、今朝は3時間ほどしか眠れていない。運転も、嫌いではないが気を張るし、自分で誘ったとはいえ、さして知りもしない相手と2人きりの時間は、身に、心に、気が付かないほどの僅かな圧をかけ続けていたようだった。柔らかな布に包まれた身体は鉛のように重いのに、大して使ったとも思えない頭には熱がこもっていて、疲れているのに、眠気は感じない。 カウンターの男がこちらを振り返り、青い目が大槻を捉えた。手招く彼のシルエットをぼんやりと眺める。枯れない花はない。畦道の側で、夏の入り口を猛々しく彩った紫陽花は、夏本番の日差しの下、猛々しさの余韻を残したまま立ち枯れ、徐々に薄黒く色を変え、ある日誰かの手で切り落とされた。萎れて地べたに転がった手毬咲の残骸は、何か不気味だった。 祖母の、暖かく乾いた手の感触が好きだった。だから、最後の夜に、こっそりと祖母の手を握ったのだ。深夜、同室で眠る叔父家族を起こさないように、そっと布団を抜け出し、一人、別の部屋に寝かされていた祖母のところへ向かった。叔父は母にも連絡はしたと言っていたが、母は結局、田舎の実家には帰らなかった。月の明るい夜だった。畳の上の真っ白な布団。微動だにしない祖母の身体。顔に被さった白い布を外すと、白粉と紅で彩られたよそゆきの顔で、どう見ても眠っているだけのように見える祖母がおり、もう二度と目覚めることはないとは、とても信じられなかった。しんとした静けさの中、声を出すことは憚られて、それでも祖母に目を開けて欲しくて、布団をめくって骨ばった手を握った時の、あの衝撃。冷たい肌。なにものとも形容し難い、皮膚の感触。気持ちが悪いと、咄嗟に思い、慌てて手を離した。気持ちが悪い。この、祖母の形をしたものが、死者の身体であると唐突に理解する。祖母ではないなにか。すまし顔で横たわる、もう動くことのない、人の形をした物。大槻にとって、あの手の感触と冷たさは、死、そのものだった。もう、祖母はここにいない。どこにもいない。その現実があまりにも悲しくて、泣くこともできなかった。自然の摂理の前に、自分は、あまりにも無力だった。 「こっち来て」 声が、聞こえた。過去に飛んでいた意識を引き戻す、現実の声。青い目が発する、力強い声。 今野に呼ばれていたことにようやく気づき、まといつく布地の引力を断ち切って立ち上がる。重い体を引きずって数メートルの距離を歩き、今野の隣に並ぶ。 「住所と名前。宿泊者全員分必要なんだって」 書いてと、示された紙には、驚くほど整った文字で、新宿区の住所と、「今野葵」と名前が書かれており、「あおい」という読み仮名を、脳内で「青い」に変換しながら、今野の文字に並べるのが申し訳ないような乱筆で、住所と氏名を書いている間、大槻の脳内を満たしていたのは、あの夏に見た百花繚乱の紫陽花だった。幼い頃から、時折浮かべていたそのイメージは、ただ、今日は少し様子が変わっていて、今までは、赤かったり紫だったりが混ざり込んでいた花の色が、どれも一様に、今野の瞳を彩る青色になっていて、それを眺める大槻の目玉さえ、青く染められていくようだった。 その後、今野はフロント係の説明を聞き、差し出された鍵を受け取り、部屋までの案内を断ると、確とした足取りで歩き出し、大槻はぼんやりしたまま、その背中を追いかけた。途中、乗り込んだエレベーターで、5階のボタンを押す今野に、字が綺麗ですねと戯れに話しかけたが、今野の返事は、よく言われるというそっけないものだった。 「…じゃあ、また8時に」 畳敷の部屋に入ると、今野はテキパキと荷解きを済ませ、タオル類を抱えてさっさと部屋を出て行った。そういえば、今野は結局、シャワーも浴びずに家を出たのだったか。服を貸すという申し出も断られたが、衣類と靴は、途中買ったものに着替えてマシになっていたものの、ワックスが固まったままくしだけ通した髪は、確かにぼそぼそしていた。大槻自身は、ロビーのソファに座ってからこっち、重力が倍にでもなったかのような重さで、ふかふかの座布団に足を投げ出して座ってしまうともう、あとはどんな動作も面倒になり、荷物もその辺に投げ出したまま、ぼんやりを続けた。やることはある。携帯を見て返信をして、今野のついでで買ってしまった服を整理して、浴衣に着替えて、温泉に行って。そういえば、今野は浴衣は着ないのだろうか。温泉といえば浴衣ではないのか。叔父家族は、温泉旅館では皆、浴衣で過ごす。歩きにくいし、すぐ着崩れるし、食事をすると苦しいし、利便性でいえば、着慣れた洋服には敵わない。けれど、そう。旅行感だ。大槻にとって、浴衣は、旅行感を醸し出すアイテムだった。いつからか、そういうものになっていた。母が浴衣を着たのは見たことがない。母と風呂に入った記憶もない。忘れているだけかもしれないけれど。記憶の中の母はいつも、キラキラと輝く目元をしていて、唇は真っ赤で艶やかで、煌びやかなのにどこか疲れた、大人の女の顔をしていた。若い女性のみずみずしさとは違う、少し力を込めたら指先が埋まりそうな、熟れて輪郭のぼやけた甘ったるい果実。駆け寄って抱きしめたら潰れてしまいそうな脆弱さ。母と二人で暮らしていた時、寂しかったのは夜だけだったか? 取り留めのない考えは、虚空を漂うばかりでどこへも収束せず、考える側から消えてゆき、どこかからまた立ち現れ、また消える。そうして、ふつふつと弾ける泡沫の向こうから、青い紫陽花がまた少しずつ姿を現し、大槻の内を青で満たし、青い目をした男一人を連れてきて、淀みに清かな風を吹かす。 寂しさは、夜だけだったか。
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