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洗い場の鏡の前に座ってようやく、脱衣所でちらちらとよこされた視線の意味に気づいて苦笑する。目のせいかとも思ったが、目が合わないのが不思議だったのだ。夜型で日に当たらないせいで、嫌に生白い皮膚をカンバスに、腹部や肩に散る赤黒いあざは、なるほど、なかなかに不気味だった。 シャワーのノズルを回すと、温水と冷水の狭間のような水が体を濡らし、温度を上げかけて、今日はこの方が良いと思いとどまった。腹のあざは、決して強いとはいえない流水の刺激すら律儀に拾ってぴりぴりと痛み、指先で押し込むと、電流でも走ったかのような衝撃があり、思わず背筋が伸びた。鏡に映る自分の姿にもう一度目をやると、よく見れば顔面も腫れぼったいし、髪はボサボサでみすぼらしいし、哀れっぽい見た目で、少し笑えた。今日一日、この顔を隣に置きながら、機嫌良く運転していた男の顔を思い起こし、彼の中で、今日という日は一体どんな位置付けなのだろうかとちらと考え、分かりようもないと結論して目を閉じた。 シャワーを手に取り頭から水を被る。髪に触れ、ワックスのごわつきを洗い流そうと試みたが、べたつく感触がなかなか取れず、結局、シャワーの温度を上げる羽目になった。ほとんど機械化した動作で全身を泡だらけにする間、シャンプーとボディーソープの位置を確認した以外はずっと目を閉じていたせいで、周囲の様々な物音が耳に入った。水が跳ねる音、誰かの笑い声、桶が床を打つ音、ぺたぺたと走る子供の足音、制止する親の声。目を閉じて初めて、家族連れが多いことに気付く。海水浴場での出来事を一生懸命説明する舌足らずな声には、時折、兄らしい少ししっかりした声で補足が入り、父らしい男性の声が相槌を打つ。再度頭から湯をかぶって泡を流し、鏡越しに見える範囲に視線を走らせると、父子の一塊が数組おり、子らはつるりとした肌でくったくなく笑い、はしゃぎ、父は一日分の運転やらあそびやらの疲れを滲ませつつ、穏やかに子らを見守っていた。 桶の湯に浸かった宿の名前入りのタオルを引き上げ、椅子やら桶やらにざっと湯をかけて立ち上がる。見渡せば、周囲にはそれなりに人はいたが、室内風呂が大小3種類、露天風呂が1つの広々とした風呂場は、混み合っていると感じるほどではなかった。もともと、湯船に浸かるつもりはなかった。温泉宿を希望はしたが、それはまぁ、旅行らしさを感じたかったからで、高温の湯は傷に障ると分かっていたし、あざに注がれる視線に気付いてからは、この場にそぐわない身体を晒し続けるのも悪い気がしていたのだ。だから、さっぱりしたら早々に上がろうと思っていたのに。意に反して、浴槽に足が向いたのは、浴室中に充満する蒸気に混じり込んだ、平穏の粒子、安堵の粒子を呼吸する内、じわりと弛んだ内臓が、もう少しこの場に留まりたい、この場に留まって、この粒子に浸りたいと、そう望んだからだった。 湯船に近づくほど、黒っぽい石でできた床材の温度が上がる。浴槽から絶えず溢れる湯に温められた床を足の裏で踏み締めると、何かそれだけで心地よい感じがする。ぱしゃぱしゃとわずかに湯を跳ねさせながら歩を進め、1番大きな室内風呂の淵に至り、揺れる水面を覗き込む。透明な水面は、人の動きを敏感に察知して揺らぎ、室内に満ちる控えめな暖色の光を受けて、柔らかく光っていた。背後から水を蹴り上げて走る軽やかな足音が迫り、視界に、小さな足先が現れる。足先からたどるように視線を上げると、今野の半分ほどの背丈の子供が立っていた。子供特有の距離感で、ごく近くに立った少年の目には、どうやら今野は入っていないようで、その視線は一心に湯に注がれており、両手でバランスをとりつつ片足を湯に突っ込むと、細心の注意を払いながら足を下ろした。床に足先がついた瞬間、ふっと弛んだ表情につられてほっと息を吐くと、少年がパッと顔を上げた。そうして彼は、まずは隣に人がいることに驚き、あざを見て驚き、目が合うと、物珍しそうに今野を見つめ、ちょと首を傾げた。 けれど、それだけだった。 「ゆうま!もう上がるって言っただろ」 背後から大人の声がし、少年はくるりと声の方を振り返ると、イタズラっぽく笑い、先ほど慎重に差し入れた足を勢いよく引き抜くと、声に向かって駆けて行った。少年の足が散らした水滴を脛の辺りに浴びながら、今野は一人その場に取り残される。 もう、分かり始めてはいた。囚われているのは自分だけで、他人から見れば、この程度のことなのだ。……もう、というか、ようやく、というか。今更といえば今更だけれども、この目ひとつ。他人からみれば、ちょっとした好奇心の対象にはなれど、ふうん、で終わる程度の話。殴られたあざの一つで掻き消えてしまうような些事。そんなものに、囚われてきた。囚われている。 先ほどの少年に倣って、透明な湯にそっと足先を浸ける。湯の温度は比較的高めで、一瞬、足先が痺れるような感覚があったが、すぐに消えた。じんわりとした熱にふくらはぎ全体を包まれる感覚は、温まった床の些細な心地よさを忘れてしまうに十分で、今野はすぐにもう一方の足も突っ込むと、風呂の隅に移動して肩まで沈んだ。普段は浴槽に湯など張らないし、温泉とも旅行とも縁遠い生活だったため、熱い湯に全身を浸すのは実に数年ぶりで、ほうと、知らずため息が溢れた。見渡せば周囲には、名も知らぬ人々の裸のシルエットが、湯煙の向こうにぼんやりと浮かんでおり、その一つ一つが違う大きさ、形をしており、声が違い、言語が違い、細部に目を凝らすまでもなく、皆違う。個性を持った一個体であって、何も自分だけが特別な訳ではない。分かってはいるのだ。 温まった手のひらで顔を覆うと、熱気に絆されて、顔面の筋肉が解ける感覚があり、今野はそのまま動きを止めた。 瞼の裏の薄闇の中で、そういえばとふと思う。 大槻の前では、この目を気にすることがない。隠しても晒しても、ふとした折に、自分の特異さに向く過剰な自意識が、大槻の前では鳴りを潜めている。何故だろうと自問する。何故だろう。大槻が、自分以上に、この目に囚われているように見えるせいだろうか。何か物凄く濃密な執着を、彼の中に感じるからだろうか。大槻が、この目に何を見ているのか。大槻の執着の向く先には、何があるのか。男に対する関心が、自己の内部に居座っていて、自己に関心を向ける余裕がない。 何か、熱を感じる視線だった。目が合うと、ちょっと暑苦しいほどの熱量でこちらを見つめる視線があり、その口は、紫陽花みたいだと宣う。今野の存在など無視して、ただ、今野の目だけに語りかけ、綺麗だと、歯の浮くようなことを言い、今野の身体を連れ回す。多分、彼は、この目玉が欲しいのだ。何某かの理由で、この目玉を求めている。だから、あの男に関心がある。自分が抉り取って捨てたいと望んだこの目玉を、あれほど欲する理由に、興味がある。 あれやこれや理由をつけて、大槻についてきた理由はこれだったかと考えて、結局、と思う。ならば結局、この目のせいではないか。 囚われている。離れようとして、離れたつもりになっても、がんじがらめになっている。この目。 この、憎々しい青!
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