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「ほんと、アホなんですか?」
旅館で借りた保冷用の氷を脇に挟んで目を閉じていると、容赦ない声が飛んできて、とはいえ特に反論も出来ず、今野は黙ったまま細く息を吐いた。
「……温泉でのぼせるとか、漫画とか?ドラマの中だけかと思ってた」
呆れ声で言われるが、ぐうの音もない。
湯船の中で考え事をしていて、気がついたときには8時近くになっており、慌てて立ち上がったところで、ひどい眩暈に襲われた。風呂の淵に手をついて、なんとか身体を支えたものの、視界は白黒に明滅し、船酔いのような気持ちの悪さに襲われ、しばらく動けなかった。不快感のピークをそのまま乗り切り、なんとか浴室から出たは良いが、頭痛と眩暈が治らず、取り敢えずバスタオルを体に巻いて、脱衣所の隅で座っていたところに、大槻が現れた。うわ、どうしたの?が第一声で、その声を聞いた瞬間、多少なりとも知った相手が近くにいることに安堵し、気が緩んだ。説明しようと口を開いたが、気分が悪くて声にならない。また一つ襲ってきた吐き気を堪えると、生理的な涙が滲み、大槻の顔がじわりとぼやけた。どうしようもなくて、目の前にあった腕を掴むと、大丈夫だから落ち着いてと、あやすような声音で言われ、ゆっくり息して、と囁かれてようやく、自身の呼吸がひどく早いことに気付いた。深呼吸を繰り返すと、少し気分がマシになり、冷やした方が良さそうと差し出された水浸しのタオルを首に当ててしばらく休んでから、とりあえず服を着て、なんとか部屋まで戻った。
大槻に支えられるようにして戻ると、廊下には、大きなワゴンの横に立つ困り顔の中居がおり、大槻が、ごめんなさい、お風呂で具合悪くしちゃってと謝る声をぼんやりと聞いた。部屋に上がり、言われるがまま、畳の上に横になって目を閉じてからは、大槻と中居の話し声が、眼裏の明滅のBGMだった。話の合間に、大槻がこちらに寄ってきて、頭の下にそっと座布団を差し入れて離れていった。甲斐甲斐しいなと思う余裕があったのは、横になったせいか、身体が少し楽になっていたからで、目を開けるのは億劫だったが、その後、順次運ばれてきた食事の匂い、出汁の香りはむしろ快く、更に身体は解けて、腕がかちゃかちゃなる音を聞きながら、目の前に並んでいるであろう料理の数々を夢想した。
中居の忙しい足音が途絶えた後で、気を遣ったらしい男は黙ったまま食事を始め、箸と腕がぶつかる音が、静かな部屋に響くのをしばらく聞いた。それから多分、20分くらい経ったところで、我慢の限界、というように大槻が口にしたのが、アホなんですか、の一言だった。
「……今野さん、夕飯、食べれます?」
「食べる」
「無理しなくていいけど」
「……食べたい」
言い直すと、大槻はふうんと言ったが、その声は、なんだか少し弾んで聞こえた。
起き上がるために目を開ける。まだ少しぼうっとする感じはあるが、気分の悪さは特にない。ゆっくりと起き上がると、頭がぐらんと揺れる感覚があって、今野は一度動きを止めた。なんとなく、首が座らない感じはあるけれど、起きていられないほどではない。立ち上がるのは少し怖くて、膝を擦ってテーブルに向かい、料理を挟んで、大槻の向かいに座る。
「片付け、遅めにきてくれるみたいなんで、ゆっくり食べてて大丈夫ですよ」
木の木目が美しい、焦茶色のどっしりとしたテーブルの上には、所狭しと、色とりどりの皿が並ぶ。食事というよりお菓子のような、一口サイズの前菜や、あざかやな色に仕上がった煮物、透明な刺身や一人用の土鍋がずらりと並ぶ様は、それだけで心が弾む光景だった。
「……これ、なんだろう」
「なんですかね?……無花果豆腐?」
特段応えを期待したわけでもない言葉にも、律儀に答えが返ってくる。頭を揺するのが嫌でのろのろと顔を上げると、お品書きと書かれた紙に見いる大槻の姿があり、今野の視線に気付くと、いつの間に口に運んだのか、なにやら咀嚼して飲み下し、結構甘いけど、日本酒に合いそうと笑ってみせた。
「酒、頼まなかったの?」
「一人で飲むほど好きでもないし」
「二人なら飲む?」
「今野さんは飲まない方がいいと思う。水飲んで」
言って、ちょっと顎をしゃくった先には、グラスになみなみと注がれた水があり、それもそうかと口をつけたところで、まだ本調子ではない身体を自覚する。水が上手く入ってこない。喉が詰まる感じとも違う、なんとなく、飲み込みが悪い感じ。グラス自体は、中華料理屋の瓶ビールに添えられるような小さなもので、普段なら一口二口で飲み干せる量を、何度もグラスを傾けてようやく飲み終える。料理に目を転じれば、食べたい気持ちはあるのだけれど、空腹感はそれほどなく、思うほどは食べられない気もする。
「……まだ調子悪い?」
「もう大丈夫」
反射的に応じて、箸を持つ。実際、少し前よりは大丈夫だったし、楽しげな相手の気分に水を刺したくなかった。
無花果豆腐に箸をつけ、口に運ぶと、ゴマの香りの後に、華やかな果実の甘味が広がり、なるほど、日本酒に合いそうな味だった。
「……飲めばいいのに」
大槻に向けて言うと、うんともいやともつかない返事があり、やぶさかでないと知る。
「……じゃあ、飲むから付き合って」
油揚げと青菜の煮浸しを口に放り込みながら言うと、飲むんですか?、と言ってこちらを向いた相手と目が合い、こんなところまで連れてきたのだから、せめてゲストをもてなせと伝えると、彼はふむと顎を引いて一瞬動きを止め、直後、日本酒でいいですかと言いながら立ち上がった。
「なんでもいいよ」
電話で注文するのかと考えたが当てが外れ、大槻は電話の前を素通りして、部屋の隅の冷蔵庫に向かった。こちらに背中を向けてかがみ込み、冷蔵庫の扉を開ける。旅館にもミニバーがあるのか。
「……仕事、結構飲むんですか?」
「飲むけど、焼酎ばっか」
「あんま人気、ないんですね」
大槻が、冷蔵庫の中を物色しながら軽い調子で言う。……別に、事実ではあるけれど。
「……初回の送り率は高いけど」
屈んで庫内を眺める背中に向けて言うと、大槻は聞いているのかいないのか、うん?と気の抜けた返事を寄越した。初回客の送り指名にはなりやすいし、ついた卓の客が戻ってくることも多い。だから店にはそれなりに居場所はあったが、本指はつかない。他人を怒らせないことは得意で、小さな嘘を織り交ぜたその場限りの会話には、すぐに慣れた。ひとときの満足を提供することはできる。けれど、それだけ。怒らせない、不快にさせない。中身がないことはすぐにばれて、だから、誰かの一番にはなれない。
「……これでいいか」
大槻が言い、振り返って、手にした瓶をこちらに向けて見せた。
「この辺で作ってる地酒だって」
黒色の瓶に金字の龍が踊るラベルが貼られた瓶は、最近の日本酒らしい華やかさで、浴衣姿の小綺麗な二十歳が手にする姿は、何やらそれだけで絵になった。
おちょこがないと言うので、これでいいと水の入っていたグラスを突き出すと、大槻はちょっと笑い、瓶の蓋を開けながら今野の隣に来ると、畳の上に胡座をかいて座り、今野のグラスに、透明な液体を1センチ程注いで手を止めた。
「……これだけ?」
「これだけ」
催促の意味でグラスを左右に揺らしながら言うと、知り合って以降1番の笑みが返ってきて、その華やぎに目を奪われる。
「乾杯しましょ」
笑顔のまま男は言い、足を崩して腕を伸ばすと、紙製のコースターの上に伏せたままになっていた自身のグラスを手に取り、瓶を傾けて、グラスいっぱい酒を注いだ。
「……不平等」
乾杯、と差し向けられたグラスに、自身のグラスを軽くぶつけて呟くと、目の前の彼は口角を上げたまま僅かに肩をすくめ、グラスの半量ほどを口に含み、喉を鳴らして飲み下し、おもむろに口を開いた。
「……コンタクトのせいですよ」
「なに?」
「……チャームポイント見せないから、人気ないんですよ」
問い返すと、口腔から精米酒の甘ったるい香りを放ちながら男は言い、視線を今野に、今野の青い目に向けた。この男の目に映っているのは、俺自身ではない。確信があって、だから、見つめる視線を見つめ返して、表層のみに執着する男の、その執着の底を探る。彫刻のような、隙のない造形。
「……色々聞かれるの、面倒だから」
「色々って?」
「……ハーフなのかとか、そういうの」
「ハーフなんですか?」
面倒だと伝えた問いをそのまま投げ返されて、その潔さに笑みすら浮かぶ。
「純日本人」
「ふうん……他は」
「他?」
「何聞かれるんですか?」
「……なんだろ」
「それだけじゃんか」
底の知れない目。何を考えているのか分からない、つるりとした濃茶。細められた目が三日月型になる。目元で綺麗に笑いながら、少し顎を引いて小首を傾げ、微かな上目遣いでこちらを窺う。
ハッとする。隙がないのは、その造形だけではない。表情の作り方一つ、細かな仕草一つ。作り込まれた美しさは一切の弛みがなく、どこか作り物めいて歪で、現実味がない。
「……何色っていうんですか?」
一色じゃないんだよなと彼は言い、こちらに目を向けたまま、また一口、大袈裟ではないが演技じみた仕草で、グラスの酒に口をつけた。彼と向かい合うと、何か、スポットライトの当たる舞台に、無理やりに上げられたような心地になる。
「……黒目の周りは黄土色?っぽいんですね。外側は……青緑?エメラルドグリーン ……純粋な水色じゃないし……」
誰にともなく呟きながら、時折グラスを傾ける。この演技的な言動が意図したものでないのだとすれば、どうして彼はこうなったのか。何が彼をこうさせたのか。
「……紫陽花なんだろ。お前に言わせれば」
紫陽花、と口にした瞬間、目玉の表面をなぞっていた視線が突然、今野を向いたのが分かった。小さく劇的な変化に驚き、心臓が跳ねる。眺める、眺められる。生物と無生物。そんな主体と客体の関係ではない、人と人として目を交わしてようやく、お互いの距離の近さに気付かされて、腰が引ける。探るつもりの視線に、他人の熱が絡みつく。絡みついた熱が、逆流する。流れ込む。逃げ出したい心地になり、意図せず身を引きかけたその時、大槻の目からふっと力が抜けた。そうして、その後数秒の間に、そのの視線は今野を透過してずっと遠くにゆらゆらと流れ出し、目の前の人間をいよいよ何一つ写さない、茫洋とした目になり顔になり、彫刻の仮面が僅かにひび割れる。
「……うん、そう。紫陽花」
ひび割れの向こうから細く紡がれた声は、どこかぼやけて実体がなく、響いた側から輪郭を無くし、気体のように揺蕩い、空気に溶けた。
物理的な変化は何もないはずなのに、明かりがひとつ暗くなったように、影が深まる。舞台袖の暗がりのような薄暗さを纏った大槻の目が捉えているであろう何かは、今野の目には何一つ映らない。
紫陽花。紫陽花が、何だ。
今野にしてみれば、別段思い入れのあるものでもない。記憶の中に紫陽花を探すと、植え込みにひっそりと佇む薄青い花が一つ、脳裏に浮かんだ。あれはいつのことだったか、ホテル街の奥、その頃度々通っていた大久保へ抜ける道の途中に、誰が植えたのか、街路樹の隣で枝を張った紫陽花が一株、薄い水色の花を咲かせているのを見たことがあった。脱色しすぎたジーンズのような気の抜けた色は、どこかくたびれて見え、お世辞にも綺麗とは言えず、視界の隅に入り込むその花の、誰の目にも留まらない不憫に、幾分か自虐を孕んだ憐れみを感じてはいたものの、改まって眺めてみようとは、一度だって思わなかった。
もしも。もしもと思う。あの場所に咲いていたのが、この目のような青色の紫陽花だったなら。自分は足を止めただろうか。足を止めて見入り、綺麗だと、呟いただろうか。
もしも。街角に咲く洗いざらしの紫陽花に出会ったのが、自分ではなく大槻だったなら。彼はそのくすんだ青も、綺麗だと讃えたのだろうか。
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