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結局、ほとんど飲まない今野を横目に、食事の間、一人で、日本酒の小瓶を2本空けた。 食事の直前まで寝てしまっていたせいもあってか、何やら目は冴えていて、さして強くもないはずなのに、今日はさらさらと酒が進んだ。 「……寝ちゃいました?」 面白くもないバラエティ番組をBGMに3本目を干したところで、真っ白な布団にうつ伏せに寝転がって微動だにしない今野に声を掛けると、彼は緩慢な動作でこちらに顔を向け、眠たげに瞬いた。 「……起きてる」 ふにゃりとした声には芯がなく、動作に違わぬ緩慢さだった。洗いざらしのグレーアッシュの髪は、傷んで乾いてふわふわしている。距離にして数メートル。ブルーの瞳は、瞼の奥の暗がりに引っ込んで見えず、布団の上の今野は、今はひどく、普通に見えた。 「……今野さんって、何してるんですか?」 「……なにって?」 「学生?」 「……学生に見える?」 ふふふと、眠気に意識を半分以上持っていかれているらしい彼は子供のように笑い、フリーター?と疑問符付きで発音して、もう一度、今度は声を出さずに笑んだ。 「で、ホスト?」 「そう」 「なんで?」 「……寮付きで、給与手渡しだったから?」 「何それ」 「住むとこ大事だろ。金もなかったし」 言い終えて1秒。今野はごろりと寝返りを打ち、仰向けになって大の字になると、柔らかく目を閉じたまま、トんだから、もう家はないけどと続けた。深刻さはひとつもない、軽やかな響きだった。 「……俺のせいですか?」 「お前のせい?……うーん……三分の一は」 「三分の一」 「あと三分の一はカナトさんのせいで、残りの三分の一は自分のせい」 知らない固有名詞を間に挟み、今野は宿なしの責任を三等分し、ついでに仕事ももうないし、今月の給料はパァと、歌うように続けた。テレビで、誰かが能天気な笑い声を立てた。 アルコールでふやけた頭なりに、今野の置かれた状況に思いめぐらせ、今更ながらに、割と大ごとなのではないかと思う。家もなく、仕事もない。その責任の三分の一が自分にあるのだとすれば、それは結構な重みではないか。彼の現状が無断欠勤の結果であるとするならば、ともすれば、彼をここまで連れ出した大槻の責任は、三分の一よりも重いはずで、だとすれば、自身の行動はあまりにも勝手ではなかったか。考えてみれば、伯父家族に迷惑を掛けたくないと宣う割に、学生の身分に甘んじている自分と、自立した生活を送る今野とでは、働く意味も、稼ぐことへの必死さも違うはずで、その程度のことにも思い至らない想像力の無さ、その背後に霞のように漂う、多少のいい加減さは許容されるだろうという水商売への偏見、叔父が支払った学費の半額を分割して支払う形ばかりの“自立“と、当日キャンセルは宿泊客負担100%と知りながら、メール一本で家族旅行をドタキャンする被扶養者の呑気が、自身の幼稚さを表している気がして、心臓がぞろりと毛羽立つ。 「……ここ来たの、まずかったですか?」 今野に対する申し訳なさと、自身の浅慮への羞恥が、喉を締め上げる。 「なんで?」 「だって……家も無くなっちゃって、悪かったなって……」 ぼそぼそと歯切れ悪く言うと、今野は、先ほどまでのぼやけた声とは打って変わって軽快に笑い、三分の一だから?と責任の話を蒸し返して、直後、嘘だよと続けた。 「自分の責任は自分にしか取れないだろ。俺は来たくて来たの。そしたら、家と仕事がなくなって、温泉に入れて、美味い飯が食えて、ふかふかの布団で寝れて、つまんない話に作り笑いしなくてよくなった」 それだけだと、ため息に乗せて言う。同列に語られる、喪失と、ほんの小さな幸福。目を閉じた横顔にはうっすらと笑みすら浮かび、力みはない。何やら怪しく滲み始めた視界の中心に、柔らかな横顔を置き、考えてみる。 その幾ばくかの幸福は、彼の喪失に見合うのだろうか。喪失の痛みは、小さな幸福の積み重ねで埋まるものだろうか。それともこれは、責任の問題なのだろうか。自己の責任で選び取った結果であれば、その喪失と幸福に大小はなく、故に、彼は穏やかでいられるのだろうか。 「……今日は……本当は、家族旅行に行く予定だったんです。家族っていっても、本当の親でも兄でもないんですけど、けど、だから、約束は守らなきゃって思ってて、」 結局、見るのが嫌で放置した携帯電話。どんな連絡が来ているのか、見当もつかない。こんな自分を、母にも見放されるような人間を、家族ではない自分を、彼らがどうして見放さないといえるのか。優しい人たちがどれほど笑顔で迎えてくれようとも、自身が異物であることに変わりはなく、擬態の努力を怠れば、あっという間に異物は異物となり、排除すべき対象となる。 「けど、今朝、今野さんに会って、」 見放されて当然の自分を、取り繕うことのない、そのままの自分を愛してくれたのは、祖母だけだった。受け入れてくれたのは、紫陽花が咲き誇る、あの土地だけだった。 じんわりぼんやりと滲む世界で、今野がゆるりとこちらを向く。瞳の中で、青がきらめく。紫陽花の青。他にはどうにも表現しようのない、静かで、横暴な青。立ち枯れてなお猛々しい、生命の青。あの土地の紫陽花はこんな風だった。確かにこの青だったと、内から湧く確信に根拠はなく、そうであるが故に、確として揺るぎない。この青に惑う。いつも通りを手放してでも、この青が欲しいと、そう思う。だから、手を伸ばしたのだ。自分の意思で。自分の責任で。 「……あなたに会って……本当はちょっと行きたくなかった家族旅行をサボって……」 青い目は、ただじっと、静かに大槻を映している。その静謐さに背を押されて、言葉を続ける。自分で選び取った喪失と幸福を、数えてみる。 「……こんなことしたの初めてで、何言われるか分かんないから、連絡、できなくて。行けないって言った後、一回も連絡してないです。怒ってるかも。……けど、今野さんと話せたのは良かったな。……あとまぁ、確かに、ここの料理は美味しかったです。風呂はまだ行ってないけど……この後行こうかな。それと……運転。楽しかった。こんな遠出することあんまりないし、海沿い走ったのも気持ちよかったです……あと、」 酒もうまかった、と言い終えた時には、抗いがたい眠気に押されたまぶたは半分以上閉じていて、今野の姿をほとんど見失っており、海上に揺蕩う船のように、部屋全体がぐらぐらと傾くのに任せ、座った身体が右に左に引っ張られるのに抗いきれず、重たい頭がゆらゆらと揺れた。無理やりまぶたをこじ開けて、もう一度今野に視線を合わせようとしたが、もはや何かに焦点を合わせることは困難で、上も下もなく、ぐるぐる回る世界の中で、喪失も幸福もいっしょくたになったマグマのような熱が腹の中で煮えたぎり、質量を増し、解放を求めて喉元までせり上がる。自分が何を考えて何を言ったかも定かでないまま、自身が立てる足音がうるさいとか、前屈みにトイレに飛び込む姿はさぞ滑稽だろうとか、諸々が散文のように脳内を巡る間に、大槻の身体は、トイレに覆い被さって嘔吐する何者かになっており、断続的にえづく自身の姿すら滑稽に思え、なぜか笑えた。 「……開けないから、鍵閉めんなよ。水置いとく」 吐き気の大波を3度超え、水洗レバーを何度か回したところで、扉の外から声がかかった。胃の中身は、多分あらかた出し切ってしまって、そのせいか、身体も、頭も、ひどく軽かった。 「……もったいなかったな……」 「何が?」 「……料理……」 全部出ちゃったと呟くと、扉の外から笑い声が聞こえた。 「飲みすぎるから。量覚えないと」 「……こんななったの初めてです」 口内の苦味に眉を顰めつつ、便器の横に座り込んで扉を開けると、キャップの開いた水のボトルの向こう側に、壁に背中を預けて板間にぺたりと座った今野がおり、目が合った直後、初めてにしては綺麗に吐くねと笑われて、なんとなくかさつく口元を手のひらでぬぐい、そうですかと応じた。扉は開け放ったまま、ボトルの水で口を濯ぎ、便器の中に吐き出す。吐き出した水は黄味がかって、透明な中に、一瞬渦を描いて拡散し、溜まった水は、すぐに、見た目には元通りの透明に戻る。 「……いいな」 数度のうがいを繰り返した後でも、未だ透明に見える水を眺めつつ、一口分の水を飲み込んだところで、今野が呟く声を聞いた。 「……なにが?」 水の塊が食道を下る感覚を追いながら問うと、今野は、先ほどよりもはっきりとした声で応じた。 「……裏切りたくない相手がいるの」 羨ましいと、続いた音を追いかけて、便器の水から視線をあげる。壁に背を預けた男は眠たげではあったが、不思議と、こちらを見る目には力があり、どうしようもなく惹き込まれる青を前に、大槻は続く言葉を聞いた。 「家族のこと、好きだから、裏切りたくなかったんだろ」 好きだから、裏切りたくない。 陳腐な言い回しに、脳が煮えた。 自分でも訳がわからないまま、なぜか、怒りを感じていた。握りしめた拳が戦慄くほどの怒り。 握りつぶしたペットボトルから水が溢れ出し、浴衣の膝を冷たく濡らした。 「……違う。そんなんじゃない」 今野に詰め寄ることがなかったのは、吐いた直後で身体の動きが鈍かったからで、怒鳴らなかったのは、単に、怒鳴り慣れない喉では、咄嗟に大声が出なかったからだ。 「じゃあなんだよ」 そういう話だったろと、今野は言う。大槻の声音の変化に気付かないはずはないのに、今野は、口元にうっすらと浮かべた笑みの一つも隠そうとせず、あまつさえその笑みを深めすらして、美しい青い目をこちらに向ける。 「家族が好きで、裏切りたくないのに、それを差し置いて俺を選んで、罪悪感で吐くほど飲んで、それで?少しはすっきりした?」 煽るような物言いがわざとだとは理解できたが、その意図までは分からない。感情が先走って、考えることができない。 「あの人達は家族じゃないし、別に、好きでもなんでもない」 怒りに任せて言葉が飛び出す。そうしておいて、自分の言葉に自分で驚き、ひどく悲しい気持ちになる。家族じゃないし、好きでもない。強すぎる感情が胸を詰まらせる。また裏切ったと、そう思う。今また一つ、俺は、あの人達を裏切った。それが悲しい。好きだから、裏切りたくない。家族でいたいから、彼らが望む、自分でいたい。家族であろうとしてくれる彼らを、悲しませたくない。結局、“誰か“を求めている。母に捨てられたあの日から、ずっと。 知らぬ間に放り出したペットボトルは床に転がり、もはや中身のわからない感情を動力に、ようやく動き出した身体は今野の元に向かっていて、気づけば、彼のTシャツの首元を掴み、その身体を揺すっていた。笑みの消えた男の顔を見返す。身の内を見透かすような視線が痛い。唇を噛み締める。返す言葉はない。 「俺の目が、何なの」 紫陽花の青。紫陽花は、強さの象徴だった。陽光もないじめつく雨の中で、鬱陶しいほどに葉を広げ、枝がしなるほどに大きな花をつけ、枯れてなお自立する。その強靭さが何よりも美しいと、そう思った。その強靭さは、救いであり支えだった。光がなくとも強靭に咲き、立ち枯れた姿を見窄らしいと貶されようと構わない。そういう風に生きる。そういう風に生きたいと思う。得難いものを望むことなく、失ったものを回顧せず、ただ淡々と、力強く。そういう生き方を肯定して欲しい。肯定せねばならない。そうでなければ、生きていけない。 「……今野さんには、いないんですか。裏切りたくない相手」 「いない」 即答して、だから羨んでいるのだと彼は続ける。 「俺が何をしても、誰も怒ってくれない。そういう心配はしたことがない。誰からも何の期待もかけられていないから、誰のことも裏切れない」 その在り様が幸福でないことは、今野の目を見れば分かった。 ではどうすればよいのか。彼の強靭な紫陽花すら、その実、陽光を求め、枯れた花を剪定する手を求め、優しさと繋がりを求めているのだとすれば、では、どうすればよいのか。 凛と咲く紫陽花が揺らぎ溶け、漆黒の夜が世界を覆う。空想の中で、大槻は、耳鳴りがするほどの静けさに耐えかねて泣く5才の子供であり、悲しい、寂しいと伸ばした手は、何もない漆黒を無為に撫でるだけで何にも届かず、暗闇に充満する孤独だけが、認識できる全てになる。
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