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瞼が震え、ゆっくりと開くのを見た。青が瞬く。どきりとする。綺麗だと思う。何度でも思う。紫陽花だろうがそうでなかろうが、今野の目が綺麗な青色であることに、疑いはない。ただその色は、ひとときも同じでない。そのことに、ようやく気付く。今朝の青は、ラムネの空き瓶のような、柔らかな透明だった。時々で変化するその色毎に、今野という人物の見え方が変わる。目の前の男は、昨日言葉を交わした彼と同一だろうか? 「……どういう状況?」 十数センチの距離で目を開けた彼は、寝起きの掠れた声で言った。トイレの前の薄暗がり。大の男二人が、枕ひとつに頭を並べ、一枚の布団にくるまっている状況に出会えば確かに、その疑問は当然と言えた。 昨夜、今野との喧嘩にもならない言い合いの後、彼一人をその場に残して主室に戻り、布団に横になってはみたものの一向に眠れず、結局は廊下の男が気になって様子を見に戻ると、彼は床に座り込んだまま眠ってしまっていた。布団に移動するよう声を掛け、その肩に手を触れたところで、熱を発して汗ばむ身体に気がついた。首筋に手を当てると、じっとりと湿った表皮はヒヤリと冷たく、少しすると、内側から滲む体温が指先を侵食してきて、その温度に、少し慌てた。なんとか布団まで移動できないかと試みてはみたものの、意識のない人一人を動かすのは並大抵でなく、諦めざるを得なかった。何もないよりはましと、枕と掛け布団を持ってきて、眠り続ける今野をとりあえずその場に横たえ、電気を消して、荒い呼吸を繰り返す苦しげな表情を眺めながら、彼も孤独なのだろうかと、ふと考えた。この男も、孤独なのだろうか。裏切りたくない相手がいない孤独と、自身の胸の内に巣食うこの孤独は、同じものだろうか。今野は、その孤独を、誰かと分かち合いたいと思うのだろうか。 夜は暗く、独りは寂しい。昨日は、暖かい身体一つが目の前にあった。だから、魔が刺した。 「……今野さん、ここで寝ちゃって、運ぶの無理だったし、熱あったから……寒いかなと思って」 大槻の要を得ない説明を、今野はふうんの一言で聴き流し、それ以上何かを聞いてくることはせずに、背中が痛いと嘯いた。 「床で寝たから」 「んんー……それだけじゃないかも」 いたずらっぽく笑った今野に、布団の中で手を掴まれる。不意打ちの甘やかな笑顔と掴まれた手の温度の両方に驚いて腕を引きかけた大槻に何を言う隙も与えず、今野はこっちと腕を引き、布団の外に引き摺り出された手は、彼の誘導で、今野の額に当てられた。その額は、布団に包まれていた大槻の手よりも、ずっと熱い。きめの細かな肌は吸い付くようで、その感触を意識した瞬間、指先がぴくりと震えた。息が止まる。 「……まだ、熱ありますね」 一瞬遅れて返すと、今野はそうと頷き、節々が痛いと続けた。 実際のところ、額に触れる以前から、今野の熱が下がっていないことは分かっていた。掴まれた手のひらの熱。触れ合う身体の熱。布団の中に籠る熱。今野の衣類は汗で湿り気を帯びていて、そんな質感すら感じる距離に留まったまま、青く潤む虹彩に魅入る。朝露の瑞々しさとは違う、しっとりと粘度のある艶めき。紫陽花の青。しかしこの温度は、植物ではあり得ない。充血した粘膜がやけに目についた。心臓の鼓動、血液の循環、発熱する身体、意思ある肉体。 今野が目を逸らさないのは、熱で頭が茹だっているせいだろうか。 「……手、冷たい」 白く乾いた唇で囁き、大槻の手に頬擦りする。青白い肌、透ける髪色。不健康に彩度の低い造形の中にある、赤い粘膜と、青い瞳。もぞもぞと動いていた今野の脚が、高すぎる温度から逃れて布団の外に逃げていた大槻の脚を見つけ出して、絡め取る。 「こっちも冷たい」 絡め取られた脚は布団の中に引き摺り込まれ、熱源の熱に溶かされ、自他の境を見失う。皮膚が蕩けて、混じり合う錯覚を起こす。どこまでが今野で、どこまでが自分なのか。その境が曖昧になる。熱源は彼か、それとも自分か。浸潤し合う熱と肉。侵し、侵される感覚。今野は視線を絡ませたまま隠微に笑み、気持ちが良いと囁く。他者と触れ合う感覚。……熱い。 「……目、覚めたんなら、とりあえず布団行ってください」 不自然にならない程度に性急に、絡みついた脚を払って身体を起こす。今野に背を向けて深く息を吐き、吐息に乗せて、あらぬところに集まりかけた熱を吐き出そうとする。知らず早まっていた呼吸に気づく。鼓動が早い。胸が痛い。理由は分からない。欲求が先走り、思考が止まる。自己の生理のままならなさに苛立つ。 勢いそのままに立ち上がり、今野を置いて主室に戻る。部屋の隅には二人分の荷物。脇に寄せられた座卓の上には、日本酒の空き瓶と潰れた空のペットボトルが並んでいて、額の辺りに居座る鈍い頭痛と相まって、昨夜の粗相を思い起こさせる。障子を透かして差し込む朝日は思いの外明るい。外の様子が気になり、大窓を覆う障子を開け放つと、海辺に向かって下る急勾配に並び立つ数棟の建物の向こうに、朝日を受けてきらきらと輝く海原があり、その美しさに息を呑んだ。陸の向こうに茫洋と広がる大海に果てはなく、ただ眩い。目を刺すような煌めきだった。 「すごいな」 背後から声が上がる。感嘆をそのまま音にしたような発声に、頷き一つで応じる。すごい。 畳を素足で踏み締めるひたひたという足音が近づき、横に並ぶ。人影が視界の端にちらつき、外へ外へ向いていた意識の一部が、部屋の中へ、隣に立つ人物へ、引き戻される。自然の煌めきに半分意識を向けたまま、横目に今野を窺うと、反射光に照らされた肌はさらに白く、目を眇めて、ただ一心に海を見つめる横顔は、玉のような艶めきだった。 海だと、今野が呟いた。海だ。 海の光を映した瞳は、この数時間に見たどの色とも違う、湖面のような透過する青になり、煌びやかな金になり、曇り空のグレーになり、波のように揺らぎ、星のように瞬き、霧のように散り、もはや何色でもない色になって、二つの目玉になった。漆黒の目にも眩い煌めきは、あの目玉にはどう映るのか。彼の見る世界を、知りたいと思う。 「……今野さん」 「なに?」 もう一度、輝く海に視線を戻して、隣の男に呼びかける。近くて、遠い。同じ風景を見ているはずなのに、同じものは見えていない。何か別のものを見ている。そうであると、確信している。隣にいるのに分からない。何も共有していない。だから、言葉を交わす。それで彼を理解できるとは思わない。ただ、理解できないことを理解したくて、声にする。 「昨日の……俺が言ったこと」 「……なんだっけ?」 「家族じゃないし、好きじゃないってやつ」 「うん」 「あれは撤回します」 「撤回」 「家族……まあ、厳密には家族じゃない、けど……心理的にも物理的にも近しい人たちという意味では、家族、に近いし……俺は、あの人たちを、好ましく思っているので、撤回します」 「……心理学だから?」 「何が」 「その、意味不明な言い回し」 馬鹿みたいに聞こえると、今野は声を上げて笑い、くるりとこちらを振り向いた。視線を交わす。青い目。青い目のエイリアン。 「心理的にも物理的にも?近いなら、家族でいいんじゃない」 「血は繋がってない」 「血なんて!それこそ何の意味もないだろ。家族になるには努力しなくちゃ。血縁はなんの保証にもならない。世の中にはたまたま、血の繋がった家族が多いってだけ」 距離が近くて好ましいなら家族だよと、今野はこともなげに言い、喉渇いたと言い置いて、室内の暗がりに引っ込んでいく。 血縁が保証にならないのなら、家族の定義はなんだろう。 「……今野さんの家族は、」 「いない」 被せるように言われて、口をつぐむ。初めてだと、そう思う。今野と話していて、遮られたと感じたのは初めてだ。 「俺を作った人間が二人いて、母親とは20年一緒に住んだけど、お互い努力しなかったから、家族にはなれなかった」 作った、と今野は言う。作った。間違いではないだろう。ただ、あまりにも表層的な言い様で、少し、嘘っぽい。 冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出しながら、でも、と続ける。 「妹が一人いるよ」 「……妹は、家族ですか?」 「もう3年くらい連絡取ってないけど」 もう少しと食い下がった大槻の問いに、やはり明確には答えないまま、今野はさらりとそれだけ言い、スポーツドリンクのキャップを外して中身を煽ると、微かに眉根を寄せて、甘いと呟いた。 アメスピを吸い、コーヒーはブラックを好む男が、熱を出してスポーツドリンクを飲む。眠気で朦朧としていても、丁寧に靴を揃えて家に上がり、汚れているからとベッドに座らない。 例えば、畳の縁は踏んではいけないとか、座布団の上に立ってはいけないとか。他人の家に入るときのマナーや服の畳み方、包丁の使い方。そういうものは全部、祖母が教えてくれた。教わるまでは、知らなかった。明け方、家に帰ってくる母は、ハイヒールを放り出すように脱いで、そのまま布団に倒れ込み、一晩震え続けた大槻の身体をぎゅっと抱いて、ただいまと笑った。暖かい母の身体からは、化粧品とアルコールとタバコの混じった匂いがしていて、大槻は、鼻につくその匂いが好きではなかったけれど、母には言えなかった。明け方の母は、1日のうちで一番上機嫌で優しくて、時には、いつもはねだっても買ってもらえない、コンビニで一番高いアイスクリームを持って戻ることもあった。そんな日には、まだ明けきらないブルーグレイの空を眺めながら、母と二人、こっくりとしたアイスクリームを食べた。母が買ってくるフレーバーはいつも、バニラとストロベリーで、大槻の前には必ず、ストロベリーのカップが置かれ、母は毎回、一口交換しようと大槻を誘った。大槻は、バニラアイスが好きだった。母は多分、それを知らない。今では自分でなんだって選べるのに、あのカップアイスを買うときにはいつも、ストロベリーを選んでしまう。 習慣の背景に誰かとの生活が滲む。今野は、家族はいないというけれど、家族というのは、努力以前の繋がりではないかと、大槻は思う。共に暮らした20年の間に、今野の母は、今野が思う以上に今野を作っていて、今野自身はそれに気がつかないほど相手に染まっている。それこそが家族だと、そう思う。ストロベリーアイスのほのかな酸味の中に、一口のバニラアイスの不存在の中に、母を見つける自分とは、根本的に違う。 「……朝ごはん、何時にしたっけ?」 甘いスポーツドリンクを飲みながら、今野が問う。8時ですと返すと、あと少しとつぶやいて、腹が減ったと、彼は笑う。
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