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「具合、どうですか?」 「んー……まあまあ」 実際のところは、まあまあというにはしんどさの方が勝っていた。大人になって熱を出すのがこれほど辛いとは思わなかった。 少しでも楽な姿勢をと限界まで座席を倒してみたが、微妙に角度がつくせいか腰が痛み、しょっちゅう姿勢を変えていた。こんなことなら、大槻の言う通り、昨日の宿にもう一泊すればよかった。 「病院、本当に行かなくていいですか?」 「薬飲めば大丈夫」 隣の男がちらちらとこちらに視線を寄越しているのには気付いていたが、彼の心配を気遣う余裕はない。時速60kmで勢いよく流れる風景も、身体に響くエンジンの振動も不快で、仕方なしに薄目を開けて、ひたすら前方だけを見続ける。20分前に飲んだ薬が効いたのか、頭痛が治りつつあることだけが救いだった。 大槻は、こちらを気にはするものの、ほとんど黙って運転していた。チェックアウトギリギリに宿を出て、途中何度か止まりながら1時間半。ようやく伊豆半島の根元を走り切ったようで、少し前から、左手にはまた、輝く海が見えていた。 今朝、大槻は、帰りましょうかと言った。逃げる、を理由にこんな場所まで連れてきた張本人がそう言ったのは、お互いに、逃げるという口実の不確かさに気づきながら、見て見ぬ振りをしていることの証拠でもあった。実際、帰ってもよかった。不意打ちで殴られて驚きはしたけれど、逃げる方法ならいくらでもあるし、彼らの目的がカナトならば、殴られても何も言わない自分は、すぐに興味の埒外になる。それに、カナトはそれほど利口でも器用でもないから、多分、すぐに捕まる。 カナトがプッシャーをやっているらしいことは、噂で聞いていた。店でも少し浮いていて、友人らしい友人もいなかった。仕事終わりの表情があまりにも寂しそうで、思わず声を掛けた。カナトも大抵ラストまでだったから、明け方の街を眺めながら、よく二人で食事をした。カナトは、仕事以外ではおとなしい方で、大して話はしなかったけれど、好きな漫画や映画の話の合間に、時々、ひどく遠い目をするのが印象的だった。彼が居なくなる前日は、カナトに誘われて、彼のアパートの近くの飯屋に連れていかれ、カナトはなぜか、今野の分まで支払った。そうして、いつもならば、店を出たらすぐにじゃあと言って背を向ける男が、その日はぼんやりと空を見上げ、うちに寄っていくかと言ったのだ。互いの家を行き来するような、親しい間柄ではなかった。気が向けば飯を食う、職場の同僚。それだけの付き合いだった。断ろうと口を開きかけたところで、こちらを見つめる、どうしようもなく悲しげな目と視線がかち合い、結局、その悲しみに気圧されて、気が付いたら頷いていた。そうして、カナトの入れた、味も香りもない、苦いだけのインスタントコーヒーを啜りながら、平日朝のお堅いニュース番組を、二人で並んで眺めた。カーテンが閉まったままの薄暗いワンルームには、ほんのりと甘い煙の匂いが微かに漂っており、灰皿には、手作りの紙巻きタバコの燃え殻が2本、捨てられたままになっていた。部屋は雑然としていたが物は少なく、没個性という言葉一つを頭に浮かべ、趣味らしい趣味もないのかと、そう思った。 ー……働きアリみたいだよな 堅い話題の合間、女性アナウンサーの声のトーンが一つ上がり、昨日どこかで行なわれたらしい、華やかな祭りの映像がテレビに映ったとき、カナトが言った。 ー生活するには金が必要で、金のために働いて。生きるために生きてるだけなら、死んだ方が楽なのに……なんで生きてるんだろう 疑問というよりは、多分、諦念に近かった。あの日、あのとき。チンチロピーヒャラ耳に届く祭囃子は、あまりにも遠かった。その言葉にどう応えたのか、そもそも何か応えたのかさえ、よく覚えていない。まずはとにかく眠たかったし、彼の言葉は、今野自身の実感に近かったから、反論も慰めも、咄嗟には出て来なかったはずで、そうであれば多分、何も言わなかったのだと思う。 大槻の横顔を視界に入れながら、東京に戻ることを拒んだ理由を考えてみる。逃げる、を口実に、自分がここにいる理由。 横顔まで、絵に描いたような美しさだった。加工のいらない完璧な配置。メイク不要のつるりとした肌。目に見えるものは明確で、分かりやすく、残酷だ。美しいものは愛され、醜いものは拒絶と排斥に会う。この男の美しさは、意識以前の感覚として、自身の判断に少なからぬ影響を与えている。信用に値するという錯覚。良い人物であろうという錯覚。家に来ないかという彼の誘いを断らなかった理由は、おおよそそれだけで説明がつく。けれど、この車に乗り込んだ理由はどうだろう。 もう少し、彼を知りたいと思った。父が拒絶し、母が憎んだこの目に、自分が捨て去りたいと願うものに、執着する男。興味一つ。働きアリの日常に投じられた一石。苦しまずに生きることは難しくて、死んだ方が楽なのは事実だけれど、生きていると時々、理解の及ばないものに出会う。 解らないものを解りたいと思う。それだけで案外、死なずにいられる。 目が覚めた。自分が寝ていたことに気付くまでに2秒。車が止まっていることに気付くまでに、もう2秒。視線を巡らせて運転手の不在を認めた瞬間、運転席のドアが開いた。 「……目、覚めました?コンビニ寄ったんですけど、なんか要りますか?」 とりあえずゼリーとか、野菜ジュースとか買ってみたけどと言葉が続く。乗り込む大槻と一緒に生ぬるい外気が入り込み、外の暑さを知る。 「……どのくらい寝てた?」 「20分位かな?顔色、少し良くなりましたね。熱も下がったんじゃないですか?」 大槻の手が、首に触れる。他人の手が首元に伸びる動作には、消えかけた動物としての本能が疼くのか、初めは無意識に身がすくんだ。体温を測るやり方としては珍しいのではないかと思うが、大槻にはこれが普通のようで、今朝から何度もこうされていて、いい加減慣れつつあり、この時にはいよいよ、一つも身構えずにその手を受け入れた。 「……俺の手の方が熱いですね」 作り込まれた微笑を浮かべて言い、大槻の手が離れていく。膝に乗せたビニール袋を漁り始めた横顔を眺めながら、昨夜から今朝にかけての男の挙動を振り返り、密やかな達成感に身慄いする。昨日は、掴み掛かられた。全てが作り物めいた彼の、生身に触れた感触。つるりとした仮面の下。舞台の上にいるのでも袖にいるのでもない、ただの人一人を、垣間見た。特段、意図したわけではない。酔いの勢いに任せた独白を聞き、感じたことを口にした。何が大槻の気に触ったのかは分からない。ただ、彼が、何某かどうにもならない疼きを抱えていることは理解でき、そのどうにもならなさには覚えがあった。世の中の大概は、自分の力ではどうにもならない。制御の外だ。 「……飲み物、これで良かったですか?」 つとこちらを向いた大槻と目を合わせたまま、重だるい腕を上げて、差し出されたスポーツドリンクに手を伸ばす。大槻の視線がゆるりと動き、自身の手に移ったのが分かった。そういえばと、ふと思う。 今朝のあれはなんだったのか。 気がつかないふりをした。というより、最初は気がつかなかった。だから不用意に触れて、触れた瞬間、大槻が震えたのに気がついた。次には故意に彼に触れ、その震えが、自身の挙動ひとつに左右されることを確認して、身の内に沸き起こった、あの感情は何だったか。 節目がちなその顔を眺めながら、ペットボトルを受け取る。偶然を装って、指先を撫でる。 瞬間、大槻が勢いよく手を引き、支えを失ったボトルは、今野の指を弾きながら、ごとりと音を立てて落下した。大槻の顔が跳ね上がる。跳ね上がって、こちらを向く。驚きと、一瞬後の羞恥。わざとらしく視線を外して、取り繕うようにボトルを拾い始めるのが面白い。昨日までは、視線を逸らすのはこちらの方だったのに。内に湧く感情を追いかける。愉快。愉快は多分、少し違う。内を揺らすこの気持ちは、愉快、よりも、ずっと輪郭が不確かで、淡い。遠くから聞こえる鈴の音のような。隠微で、軽やかな。 「……どうぞ」 ひょいと顔を上げて、拾い上げたボトルを差し出す男の顔にはまた、完璧な微笑が張り付いていて、つまらないなと、そう思う。つまらないのだ。綺麗なだけで、何もない。この顔を向けられても、何も感じない。力ずくで引き剥がして、その奥を見てみたい。 無機質な笑顔から視線を外してボトルを受け取り、飲み慣れない甘さを喉奥に流し込む。考えてみれば、熱など出したのは小学生ぶりではなかったか。身体の丈夫さだけが取り柄で、昼夜逆転のどれほどひどい生活をしていても、二日酔い以外の不調は、ここ数年一度もなかった。 大槻が寄越したのは、旅館でたまたま見つけた見覚えのあるラベルのスポーツドリンクと同じもので、子供の頃には美味いと感じたはずのそれを美味いと感じられない事実は、胸の内に、小指の先ほどの寂しさを喚起させはしたものの、吹けば飛ぶような些事ではあった。 「……水、ある?」 ボトルを半分ほど干したところで、甘ったるさに耐えきれなくなってそう言うと、大槻は、無理して飲むことなかったのにと口元で笑って水を差し出し、代わりに、飲み差しのスポーツドリンクをドリンクホルダーから引き上げ、ビニール袋に入れ直した。 「無理はしてないけど」 味のない液体で口内を濯ぎつつ告げた言葉には応えず、大槻は、ダッシュボードに、おにぎりやサンドウィッチ、ヨーグルトやゼリーを並べ始める。 「今野さん家、熱出すとスポドリ出て来たんですか?……うちのばあちゃんはりんご擦ってくれたんですけど、りんごって風邪にいいんですかね?」 綺麗に並べられた食べ物の中には、りんごの絵が描かれたヨーグルトがあり、パッケージに書かれた『角切り』の文字を見てイメージしたのは、サクッとした果物の食感だったり、鼻に抜ける、青さを含んだ香りだったりした。 「もう昼すぎたんで、なんか食べて薬飲まないと。どれなら食べられそうですか?」 「……もう熱ない気がするけど……」 青い香りの幻想を喉奥で踊らせながら応じると、美しい造形が視界に割り込んできた。 「……うん。目はだいぶはっきりしてきた感じ」 「……目?」 「今朝はとろんとしてたから。今はだいぶいいですよ。見た感じ」 大槻は、今日はあまり、目玉を見ない。表面をなぞる視線は消えてしまって、代わりに、目が合うようになった。そうなって初めて、違和感に気づいた。会話をするとき、目を、見るのだ。何かの罰でも受けているかのように、真っ直ぐに。一才の揺らぎを許さずに。探る視線とも違う。ただ、そうでなければならないとでもいうように、こちらの目をじっと見つめる。不自然な凝視。 けれど、そんな不自然な視線さえ、今野の接触を契機に熱を帯び、震え、羞恥を湧き出させる、生身になる。 頬に手を当てた瞬間、大槻は勢いよく身を引いた。指先の温度が逃げてゆく。大槻の膝の上で、ビニール袋がひしゃげて、ぐしゃりと大袈裟な音を立てる。狭い車内。逃げようとしたところで、逃げられる範囲はたかが知れている。 「……なんですか」 もう一度手を伸ばして、柔らかな頬を指の背で撫でる。低い天井に手をついて身体を支え、身を乗り出して大槻に迫る。凝視を凝視で返す。ゆっくりと近づくと、濃茶の目の奥が不安げに揺れる。愉快、ではない。愉快ではなくて……なんだろう。 どこまで近づいたら目を閉じるのか知りたくて、目を開けたまま近づいたら、唇が触れ合ったその瞬間も、互いに目を開けたままだった。 そういえば、サングラスを忘れていたとふと思う。遮るもののない夏の日差しが、ピンぼけした大槻の輪郭を、白く浮き上がらせていた。 押し付けただけの唇が、ふにゃりと歪む。感触は、男も女も大差ない。不意打ちで奪った唇はさらりと滑らかに乾いていて、ともすれば生命感すらほとんど感じない、柔らかな何かだった。 唇が逃げる。ごつんと、音がした。 「っ、なに、して」 目の前の男は、後頭部をガラスにぶつけたことにすら気が付いていないようだった。十数センチの距離で、狼狽える彼を眺めていると、その視線はそぞろ逃げていった。困ったように唇を結び、あちらこちらに目が泳ぐ。なめらかな頬に朱が上り、耳の先端が、見る間にほんのりと桜色になる。決して小さくはない身体をこれでもかというほど縮めて、逃げ出したいと全身で訴えながら、両腕は胸の前に折り畳まれていて、今野を押し返すことすらしない。羞恥と、混乱。嫌悪はない。ちらりとこちらを窺う。縋るような目だった。今朝から、大槻は時々、この目を今野に向けていた。ここが車中でなくとも、彼は逃げなかっただろう。確信する。気分がいい。 「……ヨーグルト」 「……はい?」 「りんごのやつ、もらう」 ついと身を引きながら言い、興味のないふりで大槻から視線を外す。そうしておいて、のろのろとヨーグルトに手を伸ばす男を横目にうかがい、困ったように眉間に皺を寄せているのを見て、ますます満足を覚える。何がそんなに嬉しいのか、自分でもよくわからないまま、感じたことのない喜びに、胸が弾む。
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