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「お疲れ様です」 「お疲れ様ー!またよろしくー!」 厨房の奥の背中に声をかけると、店長は振り向いてひょいと片手を上げた。またと応じて裏口に向かう。 バイト先のラーメン屋は、繁華街のそばという立地もあり、深夜帯の来客も多く、大槻は大抵、手当の付く夜間から早朝にかけてシフトを入れてもらっており、客席の掃除まで一通り終えて店を出るのは朝の4時頃だ。飲み会終わりの客が締めの一杯をやりに寄るのが始まりで、終電を逃した学生グループ、仕事帰りのホストにキャバ嬢。厨房に店長ひとり、給仕と洗い場を大槻ひとりでやりくりする店内は、今日も、客を観察する余裕がある程度には暇で、手持ち無沙汰というほどにやることがないわけでもない混雑具合だった。入れ違いに、途切れることなくやってくる人々は、狭いカウンター席に並び、肩がふれるほどの距離に他人を置いて、皆一様に、黙ったまま麺を啜る。視線は手元のラーメンと、ざらざらいうブラウン管テレビの中の、空虚な笑いばかりで情報量の少ない深夜番組を行き来し、隣に座る誰かを映すことはない。目には見えないはずの無関心が、そこにはある。人の数が多すぎるのだと、そう思う。人だらけのこの町では、人は他の何よりもありふれていて、ラーメン店で隣り合わせた程度の他人に意識と時間を割くほど無益なことはないのだろう。誰も他人に興味がない。その良し悪しは分からない。ただ、湯切りの音とテレビの音、見知らぬ誰かの咳払いだけが聞こえる店内は、意外と居心地が良いことを、大槻は知っている。多分、店の客たちも、誰かがいて一人になれる、この空間を気に入っているのだと思う。 生ゴミの詰まったゴミ袋を一つ下げて、裏口から店を出ると、数日降り続いた雨は止んでいた。空はまだ白み始めたばかりだったが、眩い太陽を予感させる、雲のない空だった。晴れるのならば久々にシーツを洗おうかと、一日の算段を始めたとき、あははと、高らかな笑い声が響いた。 深夜と早朝の狭間、音という音が息を顰めるこの時刻には珍しい、くっきりとした輪郭を持った笑い声には不思議な引力があり、大槻は、何かを考えるよりも早く、声の方を向いていた。 派手な金髪が目を引いた。 幅6メートル程の道の向こう側、青いネットのかかったゴミが積み上げてあるその横を、男が通り過ぎるところだった。上下黒のジャージ姿、顎に引っ掛けた黒いマスク。根元が黒くなった金色の髪は、パサついて艶がない。 ごく普通の、どこにでもいる若者だった。カウンターでラーメンを啜る、数多の人の中の一人。この街に生きる、有象無象の一人。すれ違った瞬間に、その相貌が記憶から抜け落ちてゆく、ありふれた他人。興味を失った大槻が視線を逸らそうとした瞬間、物音に気付いたのか、男がつとこちらを向いた。真顔だった。 目が合った瞬間、バチンと、脳内で火花が散った。22時間覚醒し続け、半分溶けたような脳みそが、最後の力を振り絞って起こした暴発。瞼の重さに耐えかねて、半分瞑っていた目がキリリと開き、靄が晴れて、世界が一段、明るくなる。 紫陽花、と、知らず呟いていた。 紫陽花のくすんだブルーが、その目の中に踊っていた。決して鮮やかな青ではない。グレーがかった、茶色がかった、独特のくすみ。真っ黒な瞳の周りを、紫陽花色の虹彩が、鮮やかに彩っている。艶々とした目玉の艶めきは、朝露のようだった。露に濡れた紫陽花が、真っ直ぐにこちらを向いていた。 一瞬だった。一瞬目が合って、男はすぐに、興味なさげに目を逸らした。大槻の存在に気づいたことで、声量は一段落ちたが、耳元に貼り付けたスマートフォンに向けて何事か語りかける彼の口許には、すぐにまた楽しげな笑みが浮かび、彼の意識が今、電話の向こうの何某に向いているのが、はっきりと見てとれた。彼にとってはまさに、大槻こそが他人だった。有象無象の一人。視界から外れた瞬間に記憶から消える、ありふれた他者。認識すると同時に消えてゆく、薄ぼけた存在。 心臓がどくどくと鳴っている。艶のない金髪から、目が離せない。男は振り向かない。朝露の紫陽花は、もう見えない。 一方通行の関心が、大槻を落ち着かない気持ちにさせる。人混みの中でも見つけられると、そう思う。あの目。紫陽花色の目。あの男は何者だろうか。仕事は?年齢は?家はこの辺りなのだろうか?また会えるだろうか?  一歩一歩遠ざかる背中を見つめる大槻の中にあったのは、独りよがりのシンパシーとノスタルジーで、青い目をした男の姿に、田舎で見た紫陽花の粗野と熱量を重ね見、なぜか、酷く幸福な心地になった。
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