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「…お疲れ様です」 「はーい!お疲れ様」 いつも通りに厨房に声をかけると、店長がくるりと振り返った。 「明日から帰省?」 「そのつもりです。1週間も休みもらってすみません」 「いやいや全然。どっちにしても、この辺、お盆の時期は人減るから。明後日からは店も閉めるしね」 「そうなんですか?」 「たまには、家族サービスしないとね」 「どこか行くんですか?」 「娘が海行きたいって言うからさ」 言いながら笑う店長の顔が、いつもと少し違って見えてどきりとする。親が子に向ける眼差しには、色がある。色々な感情が練り合わさって生まれる、不思議な色。 「千葉の城崎海岸がね、水が綺麗だっていうから、今年はそこにしようって」 大人は海鮮目当てだけどと、そう言って笑い、大槻くんもゆっくりしておいでと肩を叩かれる。はいと応じながら、この人も誰かの親なのだと考える。なんだか、不思議な感じがする。 まだ仕込みがあるという店長に、お先に失礼しますと声をかけて、大きく膨らんだゴミ袋を片手に裏口から外に出る。連日最高気温を更新する夏の只中で、明け方のこの時間、微かな風が吹き抜ける無人の通りは、太陽からも人の熱からも離れた、ほんのひとときのオアシスだ。立ち並ぶ飲食店の出す生ごみや、誰にも片付けられないままの道端の吐瀉物が放つ臭いが混ざり込んで、微かな甘さを孕んだ空気を吸い込むと、身体の内がほろりと解けて緩むのを感じ、大槻はほっと息を吐いた。今日はこの後、出来るだけ交通費を抑えるため、早割と学割を合わせて購入した新幹線の自由席切符で、11時半東京駅発新幹線に乗る予定で、帰っても眠る時間はほとんどない。今年の家族旅行は、明日から2泊3日で地元近くの温泉旅館に宿泊する予定で、叔母から送られてきた聞き慣れない旅館名を検索すると、北海道出身の兄嫁への地元紹介も兼ねているからか、着物を着た中居がずらりと出迎えてくれるような、立派な旅館だった。帰ったら荷造りもしなければならない。 ぼんやりとそんなことを考えながら、道路の向こうのゴミ捨て場へ向けて足を踏み出しかけた時、遠くで誰かが大声を上げた。何を言っているのかは分からないが、怒りをはらんだその声の後には、ばらばらと数人が走る足音が続き、酔っ払いが喧嘩でもしているのかと考えたところで、背後から、ひゅっと息を呑む音が聞こえ、大槻は反射的に振り返った。 隣のカラオケ店との間の、細い隙間。大槻が出てきた裏口の扉の、さらに奥。暗がりに身を隠すようにして、一人の男が立っていた。怯えた視線が、こちらを向いている。黒の柄シャツにスラックス、艶やかな黒いドレスシューズ。きちんと着ればそれなりに見えるであろうそれらの服は、しかし、今は乱れてみすぼらしく、靴先は、どこかで擦ったのか、白く傷になっている。 目が合った瞬間、すぐに分かった。紫陽花。6月に出会った、紫陽花の男。ただ、その瞳は今、真っ黒だった。暗がりにいるせいかとも思ったが、じっと見つめてみても、青く揺れる瞳には出会えず、以前のあれは見間違いだったのだろうかと、大槻は少し、がっかりした気持ちになる。 服装を見るに、やはり夜の仕事だったのだろう。以前金色だった髪は、シルバー寄りのアッシュに染め直されていたが、ワックスで整えた後に乱れたようで、重力に逆らった歪な形をしていた。左頬を殴られたのか、顔の半分が腫れぼったく、唇の端には血が滲んで痛々しい。よく見ると、靴だけでなく、スラックスの膝の辺りも擦れており、転んだのだと分かる。窄めた肩は小刻みに震えていて、一瞬かみ合った視線は、直後には頼りなげに揺れ、そろりと離れて行った。 遠くでまた、誰かが怒鳴った。今度の声は、どこ行った、と聞こえた。目の前の男が、ごくりと喉を鳴らす。黒い瞳の奥に揺れる、不安と、恐怖の色。怯えて縮こまるのは、大人も子供も、大差ない。暑さが遠のく。記憶の奥から、暗闇と静寂が顔を出す。不安と、恐怖。ひとりそれに耐える孤独は、よく、知っている。 「……うち、来ます?」 口をついて出た言葉に、自分で驚く。みっともないほど恐怖を露わに、何者かから逃げる見ず知らずの人間にかける言葉ではないだろうと、そう思う。無関心に価値があるとすれば、それはきっと、乱されないことだ。他者に無関心であれば、自己を乱されることはない。何かの講義で、傍観者効果について知り、なるほどと思ったものだ。目の前で人が殺されようとも、大多数は傍観者だ。自己に被害が及ばなければ、人は周囲の変化には目を瞑り、ただただ日常を繰り返す。それは一種の生存戦略で、誰に責められることでもない。それに、大槻は本来、お人よしな方ではない。だからこそ不思議だった。なぜ、自分は、こんな面倒に進んで首を突っ込もうとしているのか。 男の目元が怪訝そうに歪む。当然の反応だと、そう思う。 「……うち、ここから5分くらいなんで、良ければ」 良ければ、ではない。こんな得体の知れない男を連れ帰って、どうするつもりだ。 「……なんで」 掠れてくぐもった声で、男が問う。水を入れる前の田んぼみたいに、乾いてひび割れた声。 「……逃げてるんですよね?家の中なら見つかんないし……顔も冷やさないと」 すらすらと言葉を紡ぐ自分を、驚きを持って眺める自分がいる。けれども、止まらない。 水をやらないとと、そう思う。ひび割れた土地が潤うと、紫陽花が咲く。しとしとと降り続く麦雨が恵みをもたらすように、ひび割れた男の漆黒も、水を受けて濡れて艶めき、再び、青く咲く。予感がする。だから、手を伸ばす。 開かせてみたい。あの青を、この手で。
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