12人が本棚に入れています
本棚に追加
3
今野さん、と、最近ではほとんど呼ばれることのない本名で呼びかけられて、反応が遅れた。とんと肩を叩かれて隣を向くと、整った男の顔ががひどく近くにあり、思わず身を引く。
「あと必要なものあります?」
「……多分、平気」
数時間前には顔も知らなかった相手と二人、並んで買い物をしている状況に、理解が追いつかない。まあ、それを言うならば、この男に出会う以前から、何が何やら分からない状況ではあったのだ。昨夜、突然声をかけてきた強面の男達。話の見えないまま殴られ、なんとか隙を見て逃げ出したものの、行く当てもなく隠れた先で、この男に見つかった。デニムにパーカー。衣類にそれほど気を遣っているわけではなさそうだが、顔立ちの良さが、つまらない服すら上品に見せる。容姿だけなら売れそうというのが最初の感想だったが、ここまで1時間ほどのドライブの間、初対面の男相手とはいえあまりにも無口なことに辟易し、水商売には向かないと結論づけたのがついさっきだった。とはいえ、必要に迫られなければ話さないのは自分も同じで、車内の静けさの責任はなにも、彼だけに押し付けられるものではないのだけれど。
大槻と名乗ったこの男の、うちに来るかという誘いに乗ったのは、逃げるために他の方法を思いつかなかったからで、実際のところ、初めは、見ず知らずの、傷まみれの男を家に上げようという人の気が知れず、どんな下心があるのだろうと、警戒する気持ちの方が強かった。しかし、いざ家に上がり込むと、これでとりあえずは見つからないという安心感で緊張の糸が解けたのか、逃げ回った疲れもあって、気がついたら眠ってしまっており、目覚めた時にはもう、昼を回っていた。
『あ、起きました?』
身体中がぎしぎしいう理由がよくわからないまま、ベッドの上で重たい身体を起こしたちょうどそのとき、家主が部屋に入ってきた。手には湯気の立つ皿を持ち、メシ、あなたの分もありますよと、ちょっと口角を上げて告げる。薄らと笑むその顔をぼんやりと眺め、さて、どの店所属の誰だったかと思案しかけたところで、自身の衣類の汚れと乱れに気付き、数時間前の暴行の記憶と共に、目の前の男とのやりとりが不意に思い出され、慌てて立ち上がる。
『いや、もう帰る』
眠って少しスッキリした頭で考えてみれば、この状況はとても普通ではなく、友人に対するように話す優男の真意はますます不明で、ともかくここから離れねばという一心で発した言葉はしかし、驚くほど掠れていた。喉が渇いて声が出ない。
男はテーブルにチャーハンの乗った皿をとんと置いて隠微に笑い、待っててと言い置いてキッチンに戻ると、大振りのカップに並々と注がれた水を持って戻った。警戒心は渇きに負け、思考する前に身体が動き、差し出された水を受け取り、身体が欲するままに一息に飲み干した。口内に満ちる冷たい感触。張り付いた喉を水流が洗い、体温よりも低い温度が腹まで真っ直ぐに流れ落ちる感覚。ふわりと香る、鉄の匂い。
『…痛っ、』
痛みを感じたのは、乾きを満たした後だった。水に洗われた口内に痺れるような痛みを感じ、思わず声が出た。その様子を見て男がふっと笑い、おもむろに手を伸ばして、指先で今野の頬に触れた。さらりとした指先の感触。この男の体温が低いのか、自身の頬が熱いのか。輪郭を辿る指の冷たさが心地よくて、されるがままになる。
『……思ったより腫れなかったけど、口ん中は酷いかも』
整いすぎた顔面は、真顔になると、ひどく冷たい印象になる。石膏で作られた彫刻のような冷ややかさとは裏腹に、水気をまとった目玉は生気に満ちて輝いており、頬に注がれる視線は強い。男の指が、爪だかささくれだかを今野の皮膚に引っ掛け、傷んだ表皮に痛みが走る。反射的に身を引くと、心地よい指先が宙に浮き、伏目がちだった彼の視線がぱっと上がった。真顔が崩れる。瞬いたまぶたの上に、小さなイボを一つ見つけて、人だ、と思う。
『水、もっと要ります?』
良かったらこれもどうぞと、2リットルのボトルを差し出され、反射的に受け取る。喉乾いてたんですねと笑われて、バツが悪くて俯くと、彼は今野の羞恥には一切関心を向けることなく、そのまま畳にあぐらをかいて、チャーハンを引き寄せて食べ始めた。
『……どこ帰るか知らないですけど、帰って平気ですか?』
見つかるんじゃないの?と、食事を口に運ぶ合間に問われ、こちらの胸中を見透かすような物言いに不快を覚えて眉を寄せる。瞬間、食事をしていた男がちらりとこちらに視線を遣し、今野の不機嫌を認めて、ゆらりと離れていった。男の言葉が不快なのは、今野の内にある不安を言い当てられたからだ。殴られる前に、名前を呼ばれた。声をかけられたのは、通勤経路の中でも、人通りの少ない場所に差し掛かった、ちょうどそのタイミングだった。家も、店も、バレている。正直、どうしたらいいか、よく分からない。
ざわりと、心臓が毛羽立つ。
危ない匂いのする男たちだった。キャウヤ君だよね?カナトと仲良かったでしょ?あいつどこ行ったか知ってる?目的がカナトと知り、1週間前から無断欠勤中の同僚の、ここ数ヶ月の羽振りの良さを反芻し、ろくなことはないと思う。分不相応の金を持つと、ろくなことはないのだ。仲の良い同僚と言える程度の付き合いはあった。彼が失踪する前日には、家に行った。拳が腹部にめり込み、息が止まる。ろくなことはない。ほら、教えてくれないとおじさんたち帰れないんだけどなー。知っていたら答えていると言っても、許してもらえなかった。殴られては転び、転んでは引き起こされ、また殴られる。痛みを感じると、頭が冴える。火照る身体に反比例して、頭の芯が冷えてゆく。耐えて終わる痛みならば、耐え忍ぶのが最良。目を合わせてはいけない。視線を通して伝わる諦観の念は、反抗の意思よりも更に、相手を逆上させる。暴力の主は、打ち負かしたいだけなのだ。他者を打ち負かして、自己が強者であることを確認している。自身の強さが脅かされることが、彼らの恐怖なのだ。恐怖は、人を制御不良に陥らせ、破壊を生む。日常は、やじろべえのように、小さな小さな支点を軸にグラグラ揺れながらバランスをとっていて、誰かの恐怖が暴走すれば、あっという間に壊れてしまう。壊れないように、壊さないように。行動の意味を読み違えてはならない。殴る強さは?場所は?我を忘れた暴行か、コントロールされた手段か?男の右フックが頬にめり込み、脳が揺れた。ぐわんと地面が揺らぐ感覚。このまま頭でも打って意識を失ったら最悪だと考えたのと、拳を握った男が声を立てて笑ったのが同時だった。あっけらかんとした明るい笑い声が、表皮を震わせ、肉を震わせ、臓腑を震わせる。楽しくて仕方がないという響き。この男は、楽しんでいる。ただ、殴ることを、楽しんでいる。目的のない暴力。暴力が目的の暴力。
倒れかけた身体を、背後から誰かの手が支え、手の主は、喋らせる気があるのかと、笑う男を宥めた。ぼやけた視界に映ったのは、咥えタバコで無感動にこちらを見つめるリーダーらしき男の姿で、男の背後に、明け方の薄明かりの中でも一段と濃い、奈落のような闇の気配を認めて初めて、ああこの暴力は、父のそれとは違うのだと、今野はようやく理解したのだった。耐えて終わる痛みならば構わない。けれど、彼らの手が止まる瞬間は、想像がつかなかった。彼らが、暴力で満たされることはない。ここで自分が無抵抗に殴られ続けても、彼らは全く満たされない。満たされないから、終わりがない。終わらないなら逃げるしかない。逃げられないなら、立ち向かうしかない。一度正面から向き合ってしまったならば、どちらかの負けが決まるまで、終わりはない。
逃げている。今は、まだ。
『……逃げちゃえば』
加速する連想の狭間に、声が割り込む。思考が止まる。
『……何?』
『遠いとこ。レンタカー借りて、行き先はどこでも。カーシェア登録してるからすぐ借りられるし、運転は得意だし』
『……だから?』
『だから、俺が運転しますよって話』
あなた免許なさそうだしと、明るい調子で続いた言葉に呆気にとられ、身の内を蝕む絶望の生々しい感触が遠のく。目の前の男をまじまじと見つめ、飄々とした態度の意味を探る。
『……何のために?』
『逃げるため?逃げてるんでしょ?』
食事を続けながら、男が言う。噛み合わない会話がもどかしい。知りたいのは、この男の真意だった。
『一緒に来る理由、ないだろ』
『え?ああ……俺はー…旅行ですよ。夏休みだから』
うん、と、自分の言葉に自分で頷いて、チャーハンをかき込むのと逆の手でスマホをいじり始める。理解が出来ない。無関係の他人の逃亡を手伝うと軽々に述べ、今野の逃亡は自身には旅行だと言い放つ、この男の神経がしれない。車に乗り込んだら、法外の請求をされるのだろうか。いや、もしかすると、こいつは実はあの男たちの仲間で、逃げ出した自分を監視しているのかも。
『……あ、シャワー浴びます?着替え貸しますよ。……サイズ、同じくらいでしょ』
唐突に、スマホから顔を上げてこちらを向く。その挙動に構えはない。ただ、こちらを見るとき、やけに真っ直ぐに目を合わせるのが、ずっと気になっている。最初に話しかけられた時からそうだった。だから、彼がこちらを向くと、居た堪れない心地になる。思わず視線を逸らす。
『……いや、だから帰る、』
玄関に向かって足を踏み出し掛けたところで、思いの外強い力で手首を掴まれ、足が止まる。
『車、借りられたんで。行きましょうよ』
ほら、と見せられたスマートフォンの画面には、予約完了の文字が表示されており、困惑する。
『……でも……』
『……あれ?なんか疑ってます?別に、金取ったりするつもりないですよ』
ならなんだと、そう思う。余計に理由がないし、意味がわからない。
怪訝な表情に気が付いたらしい彼は、ええとと困ったように眉を寄せた。
『その方が怪しい?……ほんとに、俺がそうしたいだけなんだけどな……俺ね、明日から1週間休みで……暇なんですよ。だから、なんか、付き合いません?逃げるついでに、ドライブ』
ね?と、首を傾げてみせる。窺うような上目遣い。場違いに頭に浮かんだのは、彼も末っ子かなという考えが一つ。妹がいる。あいつも酷く、甘えるのがうまかった。ねぇねぇ、お兄ちゃん。何か欲しいものがあるとき、梨花はいつも、甘ったるい声で呼びかけてきた。あの声でお願いされると断れなくて、よくいいように使われた。妹は、顔立ちも振る舞いも、母に似ている。
目の前の男に意識を向ける。手首を掴む掌の温度が、エアコンで冷やされた肌にじわりと染みる。窺うような、それでいて、譲る気はないと、頑強な意志を覗かせる、強い目。その目の底を暴こうと、負けずに視線を合わせてみても、後ろ暗さは微塵もなく、結局、漆黒の瞳に飲み込まれそうになって、先に目を逸らしたのは、今野の方だった。強面の男たちとは、まとう空気が違う。……いや、違う。実際のところ、外見だけでは、他人の中身など分かりはしない。外面はいくらでも取り繕える。仮面など、いくらでも作り出せる。だから、直感というのは、あまりにも主観的な希望を反映していることがほとんどで、今この瞬間、自分自身が、この男は違うと、そう思いたいだけなのだ。
自転車の上で、触れた背中が暖かかった。呼吸に合わせてうごめく肉体が、どうしようもなく生きていて、多分もう、あの瞬間から、この男が自分の側に立ってくれることを、期待していた。手首を握る掌の体温が、自分ではない他人の存在を明々に示す。味方でなくても構わない。敵でさえなければ、それでいい。
『……どうせなら……南がいい』
もっとフランクに声を出そうとしたのに、唇から溢れた音は震えていた。
言い終えて、大きく一つ息をつく。
どうせ行くあてもない。店がばれているならば、出勤もできない。特別売り上げが良いわけでもないし、面倒はごめんだろうから、事情を話せばどにらにしろクビだろう。居場所もやることもないのならば、降って湧いた束の間の休息の間、がんじがらめの日常から逃げ出すついでに、彼のドライブに付き合うくらい構わないじゃないか。
自分を納得させるための言い訳が、頭の中を跳ね回る。見ず知らずの小綺麗な男の、甘えた仕草ひとつ。頼まれて、仕方なく。
今野の葛藤をよそに、答えに満足したらしい男は片頬でゆるく笑い、掴んでいた手をぱっと離すと、南か、と呟きながら食事に戻った。
「コンビニ、寄って欲しいんだけど」
「次あったら寄ります」
薬局の会計はカードで支払った。カードとスマホと紙幣数枚が、今手元にある全財産だった。カードも電子マネーも通帳に紐づけてあるから、近々で金に困ることはないだろうが、何かあった時に頼りになるのは現金、という母の教えが、ここにきてなぜか、頭に浮かんだ。形あるものは裏切らない。それが事実かはわからないけれど、少なくとも、形のないものよりも信用ができる。それは多分、間違いない。
「あとは服だけ?」
車に乗り込む直前、薄水色の軽自動車のルーフ越しに視線を合わせて問われ、頷きかけて止める。
「服と、できればコンタクトも」
「コンタクトはダメ」
目元を示して言うと、彼は即座に応じ、運転席に乗り込んだ。後を追って、助手席に身体を滑り込ませる。
「誰に見られたくないのか知らないけど、別にいいでしょ?俺はもう知ってるし」
この男が、誰に対してもこういう関わり方をするタイプではないのだとすれば、自身に対する振る舞いの理由は、多分、この目だった。話をするとき、不自然なほどに視線を合わせる理由を探る内に気がついた。
なんで?どうして?と、幼い頃はよく尋ねられた。大人になると、最初はちょっと驚いた顔をされ、少し経ってから、気になってたんだけど、と切り出されるようになった。最初から説明をすればよいのかもしれないが、自分でもどう説明したらよいのか分からないし、聞かれもしないのに説明するのも言い訳がましいと思うと何もいえず、結局、何となく居心地の悪い思いをし続けていた。だから、この目に向けられる視線には過敏で、普段ならば、他人から向けられる目に違和を感じたら、真っ先にこの目に理由を求めるはずだった。気づくのが遅れたのは、彼がこの目に向ける視線が、あまりにも柔らかだったからだ。
ただ、綺麗だと言った。突然襲ってきた眠気の波に飲まれる直前、ふわふわとして現実感のないぼやけた視界の中心で、じっとこちらを見る目が、なぜかひどく印象に残った。
『紫陽花みたい』
至極真面目な顔でそう言い、無遠慮に目をこじ開けるのは、およそ大人の振る舞いではなく、といって、無垢な子供の好奇心とも違って、ただ本心を述べているように見えた。なぜと、問われることがほとんどだった。それは、出自を暴こうとする問いで、自分自身の定義を強要する問いだった。だから、この目が嫌だった。けれども、彼は、この目を持つ人間に全く興味がない。目を見ればわかる。興味がないのだ。彼の関心はただ、彼が言う「綺麗な目」だけにあり、その持ち主がどうであろうと構わないらしい。そのくせ、物体としての目玉に向ける関心は隠しもせず、驚くほど無遠慮に眺め回す。
「……じゃあサングラス」
「だから、何で隠す必要が、」
「隠すとかじゃなくて、紫外線が無理」
「……へぇ、そうなんだ。そういえば、どこかの国ではみんなサングラスって聞いたことありますよ?ニュージーランド?」
知らない、と応じて目を閉じる。
自分に向ける理由のわからない関心の根拠がこの目にあるのなら、それは確かに俺のものだと、そう思う。
最初のコメントを投稿しよう!