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運転席であくびをし始めた男に、今日はここまでにしようと声を掛けたのは、午後6時頃だった。
「……まだ大して進んでないのに」
「事故られて死にたくない」
不満げな大槻にそう応じて、近場のホテルを検索する。どうせなら海に行きたいという運転手の希望で、熱海を目指して進んできたが、出発が遅かった上、途中何度か買い物に寄ったせいで、目的地には辿り着けなかった。
「……もっと遠くまでいけると思ったのにな」
小田原の街中を、カーシェアの駐車場目指して進みながら、隣の男が、ほとんど聞き取れないほどの小声で言った。真横に座る今野の耳にすら、届くか届かないかの声量で、ともすれば聞き漏らしそうな声に意識が向いたのは、意外なほど寂しげな、その響きのせいだった。思わず横顔を窺い、その頬に、べったりと張り付く翳りを見つけて意外に思う。どういう表情なのか、今野には推し量るべくもないが、ただ、何か、見てはいけないものを見てしまったような気がして、自然を装って目を逸らし、窓の向こうに視線を移す。夏の一日は長く、エアコンの効いた車内の静けさとは対照的に、外はまだ真昼のような明るさだった。
ふと思い立って、インターネットの検索ワードを入力し直す。赤信号に引っかかった車が、緩やかに減速する。
「……あと10分くらい運転できる?」
「別に、出来ますけど?」
ぴたりと動きを止めた車内で、首を捻って大槻を向くと、運転席のドアに肘をついて頬杖を付いていた彼は、僅かに首を捻ってこちらに目を向けた。サングラスを掛けてから、この男は一度も、あの食い入るような視線を向けてこない。単純で、分かりやすい。先ほど見つけた翳りは、今はもう消えている。
相手からこちらの目が見えないのを良いことに、今野はじっとその表情を探り見る。人のことは言えない。知らないもの、新しいものに向ける興味は多分、人の性で、止めろと言われても抑えきれない。理解できないもの、不思議なものを見つければ、誰もが、興味を持って眺め回す。他人の興味を鬱陶しく思うのに、自分の興味を止められない。自分に興味を向けないこの男が、懐に隠している薄暗い何某かに興味があった。この目に執着する理由に、興味があった。その二つに繋がりがあるかは分からないけれど。ただ、彼も、単純で分かりやすい、だけではないのかもしれない。
「鈴廣、寄って」
今野が言うと、大槻は少し目を見開いて首を傾げた。
「……鈴廣って、かまぼこの?」
「そう」
「えーと、好きなんですか?かまぼこ」
「別に。けど、他に行くとこもないし」
パァッと、短くクラクションを鳴らされて、驚いて前を向くと、信号はすでに青で、ハンドルを握る男は慌てた素振りで車を発進させた。
窓の外に土産屋が見えた。静かな車内で、旅行なんだろと呟いてみる。言いながら、旅行なんて、もう何年もなかったなと、そんなことを思う。そう思ったら、男への興味とは別の感情が、腹の底からふわりと湧いて、呼応するように心臓が跳ねた。旅行。
「何?」
聞き返す声を無視して、次の信号を右、と指示を出す。タイミングよく対向車が途切れ、車は滑らかに右折し、連動するように、手の中の地図がくるりと向きを変える。このまま道なりと案内を続け、ハンドルを握らなくとも意のままになる車の従順さに満足して、今野は、ここに来て初めて、全身の力を抜いて、さして柔らかくもないシートに身を沈めた。
ぼんやりと外を眺めていた目をバックミラーに転じると、じっと前を向く大槻の目元が映り込んでいた。鏡越しの男を一方的に眺めながら、なんとなしに問いかける。
「……大学生?」
「はい?」
「夏休みって言ってたから」
「……俺ですか?そうですよ」
「何年生?」
「2年生」
「てことは、20歳?若いなぁ」
「今野さんはいくつなの?」
「24」
「いうほど年離れてないですね」
「4つ違いってデカくない?」
「誤差ですよ」
「いや、4年は長いだろ」
価値観の相違ですね、と大槻が言う。4年は長い。4年もあれば、人は変わる。
「……学部、当てようか?」
「分かります?」
「商学部」
当てずっぽうで答えたら、鏡の中で目が笑い、適当でしょと男が言った。
「心理学です」
「へえ、意外」
「そうですか?」
「心理学って、根暗なイメージ」
「偏見だな。で?俺は根暗には見えない?」
鏡の中の目がこちらを向いた。視線が絡む。一方的に眺める優位性を失ったことにどきりとして、反射的に目を逸らす。
「……いや、そうだな……顔がいいからって、根暗じゃないとも限らないか」
「そうですね。ていうか、顔がいいって面と向かって言います?面白いな」
大槻は、謙遜の一つもなくからからと笑い、じゃあ、と続けた。
「じゃあ、あなたが俺と目を合わせようとしないのは、顔が良くてビビってるから?」
不本意な言い草にむっとして運転席に目を向けると、同じくこちらに顔を向けていた大槻と向き合う形になり、視線を逸らしかけたのを意図的に堪えた。男の口元には笑いの余韻があり、視線は、サングラス越しの今野の目を透かすように真っ直ぐだった。
「……お前が、失礼な見方するからだろ」
「何が失礼?」
「……目を……そうやって……」
「失礼でした?俺は、見惚れてるだけですよ。綺麗だって言ったでしょ?」
言い終えると、大槻はぱっと視線を前に戻し、サングラス、もう外してもいいんじゃないですか、と嘯きながら、愉快気に口角を上げた。時間にしてわずが数秒。会話の間も、車は速度を変えずに進んでいた。
馬鹿にされているのか、本気で言っているのか。掴みあぐねて、機嫌の良い横顔を睨んでみるが、相手は意にも介さない。
「あ、ほら。鈴廣。着きましたよ」
能天気な声に促されるまま、進行方向に顔を向けると、毎年、箱根駅伝の中継で紹介される、江戸の建物風の平屋建てがでんと構えており、車や人の賑々しさも相まったその非日常に絆されて、たまらずおおと声が出た。
「なんか、目、覚めてきたな」
隣の男の声も心なしか弾んでいて、今野はもう一度、旅行、と胸の内に呟いてみる。名前と、この目への執着と、甘え慣れた仕草しか知らない男と2人、旅行だなんて。突拍子もなくて笑えてくる。
「……酒、飲める?」
「飲めますよ?6月生まれなんで、今は合法」
対向車の切れ目を見極めながら、二十歳になりたての男が応じる。
二十歳で家を出てからの4年は長かった。が、家を出るまでの20年は、もっと、ずっと長かった。40年、50年。この先の数十年がどのようなものかは知らないけれど、最初の20年の苛烈さは知っている。全身ずぶ濡れになりながら、川の流れに逆らって進むような感覚を、よく知っている。
この男の翳りの正体はなんだろう。
旅先の知らない土地で、全てが謎めいて見える。家を出て、家族を離れて、その次には、働いて、食って、寝て。必死で進んできた先にあったのは、何もない袋小路で、退屈で窒息しそうな日々に投げ込まれた、この男は小石だった。昨日と違う今日。
今夜は、温泉のある宿に泊まろう。夕食付きが無理なら、蒲鉾と酒を買って、2人で部屋で飲んでもいい。締めはコンビニ弁当で充分。
これまではただ、濁流に呑まれないように必死だった。だから、今日くらいは、流されてみてもいいかもしれないと、そう思う。
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