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封筒を掴んで家を飛び出す。自転車の前のカゴに封筒を入れて走り出した。
青空へと続くような真直ぐな道を自転車でひたすら走る。
汗が吹き出て流れ出る。
このままでは間に合わない。
立って漕ぐ。
息が苦しくなってきた。
もう間に合わないだろうか。
駅舎の赤い屋根が左前方に見えてきた。駅へは左折して向かわなければならない。遠くから発車のベルが聞こえてきた。
駅に向かっても間に合わない。
横切る線路の前で道は行き止まりになっていた。はり巡らされた柵は胸の高さまであり、手前に雑草が生い茂っている。
封筒を掴み、迷わず自転車を投げ出した。
左手から列車が走ってくるのが見えた。
プラットホームが見えるほどの距離だから、まだスピードに乗り切ってないはずだ。
線路は三メートルほど先。
木製の柵を手で掴み、身を乗り出す。
目の前をゆるやかなスピードで電車が通っていく。
「渉!」
声が聞こえるだろうか。
届くだろうか。
窓の向こうに渉の横顔が見えた。
一瞬だけ。
瞬きする間もない。
ぎりぎりの距離まで寄っていたので風圧が容赦なく襲う。
握っていた封筒が飛ばされ、中から出た写真が舞い上がる。
紙吹雪のように舞い散る記憶の中を列車は走り抜け、小さくなり、やがて消えた。
ふらりと歩き出し、散らばっている写真を拾った。まだ息は弾み、吹き出た汗が頬を伝って落ちる。
一枚ずつ拾う。
天気雨の空。
河原に咲く小さな花。
スイカの写真は飛ばされたときに柵で擦れたのか、傷ついて折れていた。
一枚の写真の前で足を止めた。
人物の写真を撮らない渉の、唯一の人物写真だった。
初めて会った日。
あのとき、悠希に向かってシャッターを切った。
縁側で渉が語った言葉を思い出す。
――瞬間の気持ちをできるだけそのまま残したくて。
何を思って、この写真を撮ったのだろう。
拾おうと身を屈めた。雫が落ちて、その部分だけアスファルトの色が変わった。それが汗ではないのを知っている。
止まらない。雫がポツポツと落ちる。
言えなかった。
こんなにもいっぱい気持ちをくれたのに。
好きだって、言えなかった。
誰よりも特別で、絶対に忘れられないって。
遠い。
あんなにも近くにいたのに、もうここにはいない。
彼のいる景色はここにはない。
それでもやっぱり空は青く澄んでいて、変わらずにどこまでも広がっていた。
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