愛情至上主義

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「あおとを呼んでもらえますか?」 少女の声は穏やかである。否、穏やかであるように努めている。 少女は吹けば折れそうなほど細く、白いブラウスにパステルピンクのスカートを纏っている。くねくね揺れながら「あおとを……」と小さな声で繰り返す姿はなんともいじらしい恋する乙女で、この新宿の外れに存在する小さなライブハウスの受付には似合わない。 彼女の言葉を受けた青年、ライブハウスのスタッフは「はあ?」と不機嫌さを表出させて少女を睨んだ。慌てて間に別の男が入って来る。男は少女へ向けてへらへら笑うと、さりげなくライブハウスの外へ誘導しようとした。 「らぁちんさん、あおとはもうライブの準備中なんで」 「ん、知ってるよ? らぁちん差し入れ持ってきたの。入れてくれるよね」 「どうもっす、いやっ、今日はちょっと無理っす。み、みんなピリピリしてて」 「ふうん。でもらぁちんと会わせなかったら、あおと怒ると思うけど、お兄さん大丈夫なの?」 男はイラっとしたが、ヘラっとして誤魔化した。暗い地下のライブハウスから地上へ向かう階段に追いやられていると気付いた少女は、急に機嫌を悪くした。 「何その態度。らぁちんが出禁みたいじゃん。は? ナメてんじゃねえよ。らぁちんが今までどんだけ積んだか知ってるでしょ? ねえあおとは?」 狭い階段にはフラスタいくつも並んでいて更に狭くなっていた。一年ぶり二度目のワンマンライブ。開場時間が一時間後に迫っている。男は焦っていた。既にファンが会場付近に集まっているうえに、この女を追い出せない限りファンを中に入れられない。男が守ろうとしている、そして少女が会いたいと願っているあおとは、近頃人気の出てきた地下メンズアイドルグループの一員だ。業界全体でいえばスキャンダルは日常茶飯事、しかし個々人の燃え方は常に尋常ではなく、人の心がある限り再び立ち上がるのは難しいほどだった。あおとはグループの柱。にも関わらずファンである「らぁちん」他複数の女性と関係を持ったせいで、男は常に胃を痛めていた。 少女はかわゆく眉を顰めながら、階段を一段、二段、と上らされ、でもかわゆく小さな抵抗をしていた。段々地上に近づいてく。まだ夜になりかけの空から曇り空越しの太陽が差し込む。少女は転びかけながらも最後の階段にたどり着いた。男はほっとして、地上にいるスタッフに目配せする。少女は厚底ローファーをゴンと鳴らすと、フラスタを掴んでぶん回した。 「あおとを呼べっつってんだろ!」 青い花が散った。大きなリボンが煌めいた。星型の風船が弾け飛んだ。小難しいグループと「みるきより♡」という文字が書かれた板がスタッフのこめかみを直撃する。「みるき」は「らぁちん」の同担だった。 男は階段を転がり落ちた。フラスタに含まれる花とリボンと風船と青臭い水が一緒に転がっていった。血の付いた「みるき」の板は階段の中腹で留まっている。少女は駆け下りて、その板を蹴飛ばし地下送りにした。 「クソが。しょぼいフラスタ送るせいで殴っちゃったじゃん。むかつくんだよなあの女、らぁちんよりブスなのに、どうせ親の金であおとに会いに来てんのにさ」 少女はなおも地下へ進もうとした。しかし、先程男が目配せした地上のスタッフに捕まり、地上へ引きずり出された。早い時間に集まっているファンの中には「みるき」もいる。「みるき」は彼女をねっとりとした優越感で睨みつけ、「らぁちん」は唾を吐いた。てめぇのフラスタ、あおとは見ねえぞ、という想いを込めて。 地下に転がった男は、うめきながら立ち上がった。周囲のスタッフの心配を受けながら、治療よりもアイドルの様子を見ることを優先した。 明滅する視界に耐えながら楽屋を覗く。 誰もライブの準備等していない。着替え終わって化粧も終わってSNSを更新したら、まるで家みたいに過ごすだけ。本命の彼女を楽屋に呼ぶ奴もいる。あおともその一人だった。「らぁちん」でも「みるき」でもない少女が、あおとの膝の上で笑っている。
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