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寝ていることが多かったのも、それが好きだったからじゃない。きっと心臓の寿命が近づいていたからなんだ。なのにこの人はいつも笑ってた。目が覚める度に、微笑んだ。『目が覚めて、一番最初に見えるのが大好きな人なのっていいね』。そう言ったから、オレはいつも寝ているその人のそばにいた。
「連れて・・・行かないでください。この人はまだ生きています。生きている間そばにいたいんです」
もしかしたら、もう目覚めないかもしれない。そんな考えが頭をよぎる。だけど、もしもう一度その目が開いたら、その時オレはこの人のそばにいたい。この人の微笑みを、もう一度見たい。
「あなたが辛くなるだけだわ」
その言葉に、オレは首を振る。
「そばにいない方が辛いです」
そして母親はオレの願いを聞いてくれた。
その後朝になっても目覚めないので一度主治医に来てもらい、診てもらうことになった。
特に身体に異常はないが、脈はかなり弱まっているという。
「覚悟してください」
それはいつ、この心臓が止まってもおかしくないということだ。そしてもう、手の施しようがないと言う。ならば無理に移すこともないだろうと、このままここにいることになり、医師と母親は別室に控えることになった。
そしてこの人が目を覚まさなくなって5日が過ぎた明け方、隣で眠っていたオレは不意に目が覚めた。外はわずかに白んできたところで、まだ夜の闇の方が濃い。
まだ早いな。
そう思ってもう一度寝ようとしたその時、その人の瞼が微かに震え、ゆっくりとその瞼を上げていく。はっとなって覗き込むオレを見て、その人はふわりと微笑む。
「おはよう。ずいぶん寝てたね」
そう言うオレに目を細めて笑う。
「夢を見てたよ。すごく幸せな夢。だから全部夢だったらどうしようって思ったけど、良かった。ちゃんといて」
そう言って手を伸ばすから、オレはその手を取って頬に当てた。
「当たり前だよ。ちゃんといるよ」
「うん。夢じゃなかった。僕の幸せ。僕ね、君に会えてすごく幸せだよ。番になれて一緒にいられて、いまが一番幸せ」
「オレも幸せだよ」
「知ってる。だけど、これからももっと幸せにならなきゃね。僕ね、君が幸せになることがすごく嬉しいから。だからもっといっぱい、僕を喜ばせて」
そう言って微笑むその人の瞼が少しづつ降りてくる。
「分かってるよ。これからいっぱい喜ばせてあげるから、だからもう少し眠りな。眠いんだろ?」
するとその人は微笑んだまま小さく頷いた。
「おやすみ」
オレは静かに瞼を閉じるその人に、触れるだけのキスをした。
そしてその人は再びその目を開けることなく、静かに永遠の眠りについた。
それからオレは、夏になると毎年この別荘を訪れる。
あの夏のことを、オレは家族には言わなかった。あの人とのキレイで幸せな思い出を汚されたくなかったからだ。
その後オレのアルファが正式に診断され、オレはますます家を継ぐために厳しく教育された。そしてそれをオレは受け入れ、励んだ。
力をつけなくてはならないからだ。
家長を継ぐからには、オレはオメガと番い結婚しなければならない。だけど、オレは誰とも番う気はなかった。
オレの番はあの人だけだ。
キレイで儚い、オレのオメガ。
この一族の家長は必ずオメガと結婚し、アルファを残さなければならない。それは何百年も続いたこの一族の、いわば掟だ。その掟を破ることは並大抵のことではなく、家族のみならず一族を従わせるだけの力をつけなければならないのだ。
だれにも文句を言わせない力をつける。
そうして着実に力をつけ、そしてその地位も固めて来たオレは、その夏もあの別荘を訪れていた。
あの夏から10年が経っていた。
あの人との思い出は10年経っても色褪せることなく、鮮明にオレの心に焼き付いている。今でもここを訪れると、あのベッドにあの人が寝ているような気がする。
オレは荷物を置くと、すぐに散歩に出た。
忙しくて夏の休暇が取りにくくても、必ずこの日に間に合うようにここに来るようにしている。
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