番外編

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今年はギリギリになってしまった。 陽のあるうちに行こう。 今日はあの人に初めて会った日だ。 10年前の今日、オレは湖であの人に会い、そして結ばれた。 だから毎年、この日にオレは湖に行くことにしている。 何をする訳では無い。 ただ湖を訪れて、あの人のことを思うだけだ。そしてできる限り別荘に滞在し、あの人との思い出に耽る。 いつものように木立を進んでいくと、ふといい香りがする。 けれど、あの日のように心臓の高鳴りも焦燥感もない。 どこから香って来るのか・・・? そう思いながら進んでいくと視界が開け、湖が見えてくる。そしてそこに佇む人影が・・・。 オレの足音に振り返ったその人を見て、オレの心臓が一瞬大きく脈打つ。けれどそれは、本当に一瞬だった。 振り返ったその人の顔はあの人によく似ていた。けれど、それだけだ。 確かに顔の造作は同じだった。目も鼻も口も、あの人にそっくりだ。だけどその瞳に宿る強さも、雰囲気も、何よりその香りが全く違ったのだ。 それに性別が全くの正反対だ。 彼女(・・)は突然現れたオレに、一瞬アルファの威圧をかける。けれどすぐにそれを解くと、再び湖の方を向いた。 「私ね。あの子はかわいそうな子だと思っていたの」 不意に話し出した彼女に、オレはその場で足を止めた。 「生まれた時から死を宣告されて、病院から出られず、学校にも行けない。友達もいないし、いつ行っても本ばかり読んでいたわ」 そして再び、彼女はオレを振り向く。そばに来いと言うことだろうか。 「あの子の全てを私が吸い取っちゃったんですって」 隣に並んだオレを見て、彼女は自嘲気味に笑った。 「私は健康で頭が良くて、運動神経もいいわ。それに当然アルファよ。顔も美人でしょ?」 自慢げな言葉を並べながら、けれど彼女はその顔を歪ませる。 「生まれる前はずっと一緒で、そばに居るのが当たり前だったのに、なんでこうも違ってしまったのかしらね。全く違うあの子に、両親・・・特に母はあの子に付きっきりだったわ。私はそれでも平気だったの。両親の愛があの子に向いていても、それでもあの子の全てを奪ってしまったような罪悪感に比べたら、むしろもっとあの子を構ってあげて欲しいと思ったくらいよ」 そう言うと彼女はその場にしゃがみこみ、湖に映る自分の顔を見る。 「だけどあの子を見る度に、そして両親が私の顔を見て悲しそうにする度に、私はいたたまれなくなった。だってもうすぐあの子は死んでしまう。医者は16才と言ったけど、もっと早いかもしれない。そうしたら私は・・・両親はどうなってしまうの?」 水面に映るあの人と同じ顔を、彼女は手でかき消した。 「だから逃げたの。誰も私を知らないところへ。アメリカに留学したわ。そしてそのまま帰らなかった。あの子が亡くなったと聞いても、帰らなかった。あの子の死に顔なんて見たくなかったし、そっくりな私の顔を見て悲しむ両親にも会いたくなかったから」 彼女は水につけたまま手をゆっくり動かし、水面を波立たせる。 「だけど、なんだか帰りたくなったの。不思議よね。もう二度と家には帰らないつもりだったのに。それで今年帰国して、そして見つけたの。あの子の最後の記録を」 そう言って立ち上がると濡れた手を拭い、傍らに置いてあったバッグからノートを一冊取り出した。 「きっと母が置いたんでしょうけど、私にはなんだかあの子がこれを読んで欲しがってるように思えて・・・」 そう言うと彼女はそのノートをオレに渡した。思わず受け取ってしまったノートの表紙には何も書かれていなかったが、中を開くとびっしり文字が埋まっていた。 「あの子の日記よ。最後の一ヶ月の」 その言葉に、オレはもう一度表紙を見る。 これは元々オレのノートだ。 あの日・・・ここで初めてあの人と結ばれた日、うちの別荘に来たあの人がノートを一冊欲しいと言ってきたのだ。だからオレは、勉強用に持ってきたノートの一冊をあの人に渡した。
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