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──小柄なおかげかすばしっこくて、喧嘩は負け知らずだった。
そんな楊卓だから、町の力自慢大会に参加しては日銭を稼いでいた。
貧民も富裕層も入り混じった観衆の中に、ある商人がいたという。
その商人に連れられて大会を見に来ていた娘さんに、楊卓の父が目をつけた。
喧嘩に強く、けれど正直者でおおらかな楊卓と、器量よしでおっとりした娘さん。
父親たちの仕組んだ出逢いはきっかけに過ぎず、ふたりはすぐに心から惹かれ合っていった。
照れ屋の楊卓はそのことをあまり俺に話さなかったが、村のみんなが噂していた。絵に描いたような純愛だと。俺は楊卓の前では知らぬふりをしていた。
俺の母親は厄介者で、昔から何でもかんでも俺に押しつけた。それこそ富豪の娘さんが駆け落ちしてきたような人だった。
料理するのも俺、土間を掃くのも俺、たくさんいる弟と妹の面倒を見るのも俺。加えてあまり身体の強くない親父の畑仕事も手伝っている。
今だって楊卓と会える時間は夜中だけで、日が昇ればまた家に戻らなくちゃならない。
働き蟻みたいな俺を相手に、楊卓は幸せな話をしたくなかったのだと思う。
だからもうすぐ山の桜が満開になるだとか、こないだ旅人がくれた水飴また食いたいなとか、棚の奥から懐かしい写真が出てきたんだとか、そういう優しい話ばかりするのだ。
結局、結婚して他所の町へ行くんだと聞かされたのは、ちょうど村を出ていく七日前になる深夜のことだった。
「──じゅん、鉱順」
回想に浸っていたら、後ろから腕を掴まれた。
息を切らして、少し遅れて上がってくる。俺の歩幅はどんどん大きくなっていたらしい。
「すまない。もう少しだ」
「大丈夫だよ。なに考えてたんだ? まさか、化け物が怖くなってきたとか」
「馬鹿言え。あれはお前の見間違いだ」
「だといいんだけどなぁ。黒くてぬめぬめしたやつ」
楊卓の腕を引っ張るようにして登っていった。こいつは持久力がないから、長引くと駄目なんだ。すっぽりと掴める細い腕と、その先の小さくて骨っぽい拳を眺めてみる。こんなので人を殴れるとは到底思えない。
「おー、見えてきたな。にしても暗い。真っ黒だ」
もう片方の手をかざして、楊卓はおどけた声を出す。子供の頃と変わらぬその声に、ふと思う。
俺が働いて人の言いなりになっているあいだ、楊卓は気持ちよく汗を流しては賞金を貰い、ついでに綺麗な嫁さんも見つけたのか──と。
木々が開けて、平らな場所に出た。
ここは大昔、地震で山の半分が崩れてできたらしい。だから森の出口には削られた山の岩壁があるというが、そこまでたどり着いた人間を俺たちは知らない。
やや薄くなり始めた闇の中で、森はいっそう黒々としていた。
森の影は歪で、まるで夜が破られたかのような形をしていた。
破れ目から血のようにどろりとあふれ出してくる冷気が、俺たちの肌を包み込み、肉にまで浸透してくる。はらわたをゆっくりと掴まれるような気がする。こんなに怖かったっけ、と楊卓は呟いて、俺の腕にしがみついた。
「行こう」
冷気を吸い込むと、肺がずしりと重くなった。心臓が脈打つのを感じる。夜風が涼しい。どんどん呑み込まれていく。
嫌な汗をかきながら、俺は自分が森の奥に行きたがっているのに気がついた。
何かが呼んでいる気がする。あの黒闇の向こうから、何者かの瞳が真っすぐに俺の心臓を射抜いてくる。
上手く息ができなくて、冷たい空気を求めてふらふらと歩き出した。腕についてくる楊卓の重みだけが、俺の両足が駆け出すのを抑えてくれている。
「……鉱順? 顔、真っ青だぜ」
心配そうに、怯えたように覗き込んでくる親友に微笑んだ。呼ばれているのは俺だけだろうか。楊卓を帰らせるべきかとも思ったが、何も言えずに結局俺たちは森の中へと足を踏み入れた。
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