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「けいしゃつを呼べ」
シックな色合いの家具やが店内に並ぶパスタ専門店。豊島めぐみが立ち上がり、セルフサービスの水を取りに行こうとした時、低いガラガラ声が店内に響いた。声の主はめぐみの隣の席にいる薄汚れた黄色のジャンパーの男だ。
「おい、そこのブラウスのキレーな姉ちゃん」
黄色のジャンパーの男はめぐみに話しかける。男が口を開くたび、前歯の抜けた口内が見える。口の中も体も全体的に茶色い。
めぐみはこの男に何かしたかと思考を巡らす。してない。何も。
めぐみの席は店内の奥まったところにある。男とは向かい合ってはいないが席は並んでいる。まさか、席に座るときにぶつかった?
めぐみは肩がけにしている自分のバックに視線を移した。長財布がやっと入るサイズの小さめのバック。ぶつかるはずはない。たとえぶつかったとしても、痛くは無いはず……。
じゃあなんで話しかけてきたのこの人?
「最近のぱしゅたは、なっちょらんなっちょらん。かんぢゃら、くしゅくしゅ言うんら、くしゅくしゅ」
ところどころ滑舌が良くない。酔っ払っているのだろうか。
「あの……何かしました?」
めぐみは恐る恐るジャンパーの男に話しかける。
「あーね、もね、くちゅくちゅくちゅくちゅ」
男はなおも滑舌の悪い話し方をしており、口から謎の擬音が飛び出す。
「あの、用がないなら、行きますよ」
めぐみが行こうとすると、
「ああ、まちんっしゃいまちんしゃい」
男は立ち上がり、めぐみのブラウスの裾を掴んだ。ターゲットはめぐみだ。
「もうね、今ぢょきのぱしゅたはね、クチュクチュクチュ。ぱしゅたか、脱脂ふんにゅかよくわかりゃん」
「脱脂粉乳……」
話からパスタに対する不満があることが感じ取れる。
しかし、男のテーブルはどの皿もことごとく空になっている。ケチャップやオリーブオイル、バジルといったパスタの調味料がわずかに残るのみである。
味に文句があるなら、こんなにいくつも頼まなければいいのに。
「でもね、ここのパスタ、すんげえな。クニュっクニュって、歯で、かみごたえあるにょよ、かみごたえが」
「かみごたえ」
めぐみは男の言葉を復唱する。
「クニュくにゅくにゅクニュ、かみごたえありゅのよ。抜群よ、ばちゅぐん」
男は興奮してフォークを手に持ち振り回し始めている。
めぐみは少し後退りした。やばい、この人。
「ああまちんしゃいまちんしゃい。けいしゃつ呼んで、け・い・さ・つ」
男は立ち上がって、今度はめぐみのブラウスの袖を掴んだ。袖をつかむ茶色い手はゴツゴツしている。めぐみは恐怖を感じたが、声が出ない。
周囲を見回すと、いつの間にか店員がめぐみのそばにきていた。
「どうかなさいましたか?」
エプロンにベレー帽の店員がめぐみに話しかけてきた。
「ちがうちがう、けいしゃつ、ぱしゅたうまい」
男は頭を振っている。
「あの、何が言いたいんですか」
めぐみは意を決して大声をあげた。
男はビクッとした。店員もビクッとした。
店中の視線が、めぐみと黄色いジャンパーの男に注がれている。
「あのね、ここのね、ぱしゅたがうまいの」
「だから?」
「でもね、お金、ないの」
「で?」
「け・い・さ・つ。警察呼んでほしいの」
「なんで?」
「お金、無い。にゃいから」
もしかしてこれは、ものすごく堂々とした食い逃げなのだろうか。
そんなめぐみの思いをよそに、黄色いジャンパーの男はお腹を叩いてこう言った。
「ごちしょうさま。うまかった」
茶色い食い逃げ犯は笑顔で堂々と座った。
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