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第三話
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昼休み明けの授業は誰だってダルい。四十五分ぽっちの休み時間じゃ全然足りないと思う。
教室の八割の生徒が、まだ休み時間の延長で喋っていた。先生が教室にまだ来ていないからと席についていない生徒もいる。
千秋は騒がしい教室の一番後ろの席で、ぼんやりと校庭を見下ろしていた。窓の外には体育の授業の生徒たちがグラウントの中央へ向かっている姿が見える。
千秋の午後一の授業は家庭科だった。
国語や数学の授業なら真面目な生徒も、なぜか家庭科となると不真面目になる。
(花妻先生、会うの久しぶりだなぁ)
家庭科の授業は一週間に一回。花妻は副担任なので、ほとんど教室に顔を出さない。
チャイムがなってから、五分くらいして花妻は教室に入ってきた。入学式のときに見たモデルのように見えるスーツじゃなくて、今日はスラックスに白シャツ藍色のネクタイ。グレーの薄手のニット。いかにもな先生らしい格好をしていた。
またあのかっこいいスーツ姿が見たいと思ったが、入学式が特別だっただけで、この先生スタイルが本来の花妻の姿なのだろう。少し残念だった。
地味な格好でも、顔やスタイルの良さは滲み出ていた。
「悪い、遅くなった、授業始めるぞ、そこ、遊佐、いつまで立ってる、早く座れ」
花妻が教室の前の方で、まだ座っていない男子生徒に声をかけた。
「うるせーなぁ。花「妻」せんせー。マジで、だっ、ル……」
遊佐は機嫌が悪いのか、あるいは先生を舐めているのか、花妻の名前の「妻」をからかうように言った。
(しょ……小学生、かな、それか、極端に虫の居所が悪いとか)
どんな学校だって、先生を舐めている生徒は一定数いるが中学生じゃない。高校生でも、こんな生徒がいるんだなぁと千秋は少し驚いていた。花妻が他の先生たちよりも若いから、自分達と近しいように感じているのかもしれない。
多くの生徒から「亜樹ちゃん先生」なんて呼ばれている。友達のように感じているのだろう。
(俺は、先生って呼ぶたび、遠くに感じるけどなぁ)
遊佐は悪態をつきながらも花妻の指示通り席に座った。だから、そのまま花妻は授業を始めると思った。
けれど教卓の前に立った花妻は、教室中央の席に座っている遊佐に視線を向けた。
その目は遊佐と同じ目をしている。
午後イチの講義がダルいって。
同時に冷めた切長の目は、不快を浮かべていた。外はカラッと晴れているのに花妻から次第に周囲へ雲がかっていくようだ。
(今、先生、舌打ちしたよな)
さっきまで騒ついて遊んでいた生徒たちも、先生に注目して、ごくりと息をのむ。
「遊佐」
「な、んだよ」
「さっきの、なに? 先生に聞こえるように、はっきり言いな。遊佐、立てよ」
花妻は氷みたいに冷たい目をしていた。
「え」
「ほら、言いたことあるんだろう。言ってスッキリしろよ。もやもやしてたら授業始められないだろう」
「いえ、別に、なんでも。もやもやなんて」
「俺が、もやもやするんだよ」
もごもごと口籠る生徒に、花妻は容赦なかった。
「なんでもないことはないだろう」
え、先生って、元不良とかかなって思った。
そこには悪ふざけした小学生みたいな生徒を大人気なく煽っている先生が立っていた。先生と周囲のクラスメイトたちの視線を集めて、いたたまれなくなったのか、ついてに遊佐は口を開いた。
「花妻、先生って、女みたいな名前だなって」
「うん。それが? それで、俺の名前で、お前になんか迷惑かけた?」
千秋は、このままでは、いけないと思って席から立ち上がった。先生が生徒と喧嘩なんてしたら、先生は先生でいられなくなる。
鶴の恩返しじゃないけれど、入学式のときに倒れて助けてもらった恩を返すのは今だと思った。
徐に立ち上がったとき花妻と視線があった。
「ぁ……」
思わず、小さな声が漏れた。
花妻のその瞳には確かな怒りが浮かんでいた。
花妻は名前を揶揄われて、本当に怒っていた。けれど、千秋と目があった次の瞬間、長いまつ毛の瞳を一度伏せた。
千秋は勢いに任せて、席から立ち上がったが、続く言葉が見つからない。
先生が自分の名前をコンプレックスに思っていて腹が立ったのなら、この場で反論するのは正しいことのように感じた。
嫌なことをされて「先生だから黙っている」なんて、正しいとは思えない。
大人とか子供とか関係ない。
千秋が迷っている間に、ことは進んでいた。
花妻は視線を遊佐に戻している。
さっきまでの、どこぞの不良みたいな表情はなりをひそめ、先生の顔に戻っていた。
再び促された遊佐は苦し紛れに言葉を続けた。
「い……え、別に。ないです」
「そうだよね。座りなさい」
花妻を助けようと思って立ち上がったのに、結局なにも出来ずに、遊佐と同じように千秋も座ってしまった。
花妻は、教卓の前で小さく息を吐いた。
「あのな、この場で先生が言いたいことは、たくさんあるんだけど、それについては、この家庭科の授業や、高校生活を通して学んで欲しいと思っている」
花妻は先生の声で続けた。
「遊佐だけじゃない。家庭科の先生なのに、なんで男がって思った人いるんじゃないか? 男に料理が出来るのか、とか。花妻って名前が余計に、そう思わせている。けれど、これはからかっていい理由にはならないし、笑っていいことでもない」
千秋は先生の顔をしている花妻をじっと見つめていた。
先生が言いたいことの中には、教室の生徒が想像していないくらいの反論と怒りがある気がした。
それをしないで、この場で先生の声をして言うべきことだけを言っている。
「で、こういうのを性別バイアスっていいます。家庭における男女での役割分担なんてものも、今の時代はない。職業も同じ。男でも女でも料理洗濯掃除は出来るようになるべき。だから学校では男女問わず家庭の授業をしている。はい、これテストにも出るからな。俺がさっき怒った理由についても、書かせるから覚えておくように」
さっきまでは、子供の戯言などくだらないと相手にしないのが大人で、先生なのだと思っていた。
けれど生徒に舌打ちしたりする先生もいて、別にいいんじゃないかと思った。先生だけど、先生じゃないところもある。
大人子供みたいな先生のことが、やっぱり好きだと思った。名前を呼ぶ度、遠い存在だと思うのに、子供の自分と同じところを見つけると、少しだけ嬉しく思ってしまう。
そんな小さな共通点でしか喜べない子供の自分を情けなく思うし、やっぱり最後にはムカついてしまう。
自分が一足飛びに大人になって花妻の場所まで行けたらいいのに。
「はい、じゃあ、授業始めるよ。教科書十七ページ開いて、――環境に配慮したライフスタイルとは、から。えー、坂田、読んで」
花妻は黒板に向かって板書を始めた。昼一に想像した通りの、淡々とした家庭科の授業が始まっている。
千秋は、その先生の背中を見ながら上の空だった。
好きになった先生に、他の生徒より構ってもらいたい。
どうしたら、構ってもらえるんだろうなんてことを考えていた。
【花妻先生に好きになってもらうには】
先生が好きになる生徒とは。
黒板の板書もせずに、ノートに、思いつくまま書いていた。
勉強が良く出来る。
できない。
ノートにバツを書いた。
顔がいい。可愛い。
(可愛い顔っていうか、丸いって言われた、かな)
多分、並。
ノートにバツを書いた。
手がかからない生徒。
初日から、大変手がかかる生徒だった。
(本当、先生って、キレイだよなぁ)
花妻と比べたら、自分なんてミジンコだろう。身長は平均、顔が丸くて、幼く見える。今まで外見の良し悪しなんて考えたことがなかったのに、先生に言われた日から「丸い顔」がコンプレックスになってしまった。
家庭科の先生なんだから、料理好きなのかな?
料理とか出来たらいいかな。
家庭科の教科書をパラパラめくって、料理のレシピが書いているページを見た。
出来る気がしなかった。パンは焼ける。お湯は沸かせる。それから……。
(……あと、米くらいしか炊けない)
最初はカレーとか作りたいなぁ。
「おい、熱心に遊んでるところ邪魔して悪いな、千秋」
突然、名前を呼ばれて顔を上げた。すると机の横に花妻が立っている。本当に、キレイな顔だなぁって思った。
うっとりした顔のまま、口を開いていた。
「先生は、料理できる人って好きですか?」
「あ?」
刺々しい、花妻の声が帰ってくる。
「あ……。えっと」
「授業中に楽しい妄想も結構だが、ちゃんとノート書いておけよ。……先生は甘いカレーが食べたい」
トントン、と千秋のノートを人差し指で叩かれる。
そこには「カレーを作る!」と書いていた。
教室に、どっと笑いがおこる。
授業そっちのけで、ノートにひたすら妄想を書き綴っていた。それを冷たい目で花妻が見下ろしていた。
タイミングがいいのか悪いのか、そこで授業が終わりのチャイムが鳴った。
「はい、終わり。授業聞いていなかった千秋は全員分のノート集めて、放課後持って来るように。以上」
* * *
放課後にノートを集めて職員室に行ったら、担任の渡に花妻は「家庭科準備室」だと言われた。家庭科準備室は三階の一番奥、ミシンがたくさん並んでいる被服室の隣にあった。時間が放課後なのもあるが、近くには教室がないので生徒もいない。
ドアを開けると花妻は奥の教員机でノートパソコンを前にして座っていた。
「先生、ノート持ってきました」
「ありがと、そこのテーブル置いておいてくれ」
千秋のクラスだけじゃなく、他のクラスのノートも束になって置いてあった。そこに同じようにノートの束を並べておいた。
授業を聞いていなかった件で叱られると思っていたのに、千秋に花妻は何も言わなかった。
パソコンに向かって座っていたので、仕事をしているのかと思ったが、花妻の机にはカップラーメンが置いてあった。花妻は生徒の千秋がいるのに、気にせず電気ケトルでお湯を沸かし始める。ここで食べる気だろうか。
時間は午後四時を回ったところ。昼ごはんにも夕飯にも、ましてや、おやつの時間にも適さない時間だった。
「ん、なんだ。こっち来ても上げないよ。先生のご飯だからね~」
「た、食べたいわけじゃないです。先生に言われて、カップ麺はしばらく食べないって決めてるから」
「おぉ、健康に気を使って偉いじゃん、褒めてあげよう」
ふいに手を伸ばされて、肩をポンポンとたたかれる。その手が頭の上だったらよかったのにって思っていた。
(俺、犬みたいだな)
昼間の先生の声とは違って保健室で二人きりだったときと同じ声をしていた。先生に褒められるために健康に気をつけているわけじゃない。けど、褒められるとやっぱり嬉しかったし、もっと褒めて欲しいと思ってしまう。
「先生、カップ麺、駄目なんじゃないの」
「先生は先生のお仕事で、昼ご飯食べる時間がなかったの」
よよよ、と泣くような演技がかった声で言われて、千秋は目を丸くした。
「ごめん、なさい」
「んー? 別に、お前のせいじゃないだろう、どうした?」
「だって、生徒の手がかかるから、先生の仕事が終わらないんでしょう」
「あのなぁ、そんな訳あるか。先生って仕事は、どこでも、こんな感じでブラックです。将来先生になりたいなら覚悟しておけよー」
花妻はなんでもないことのように笑った。けれど、こんなところで一人で仕事をしながら変な時間にカップ麺を食べようとしている花妻を見て、自分が、なんとかしなくてはと思っていた。
そうこうしている間にお湯が沸いた。花妻が電気ケトルに手を伸ばしたタイミングで、千秋はカップ麺を奪った。
「あ、おい、あげないって言っただろ」
「俺は! 心配だ。先生の体が、すごく……だから、食べちゃダメだ」
「心配ってなぁ、大人はこれ以上、成長しないし、分かった上で、不健康なもの食べてるの」
先生は先生らしくないことを言っている自覚があるのか、視線を千秋から外した。
「先生、昼間イライラしてたのだって、昼ごはん食べてなかったからだ、と思った!」
「そうかもね。腹減ってたし。つか、俺がイライラしてたの気づいてたの?」
先生の変化に気づいたのは、千秋が花妻のことを特別に思っているからだ。好きで、子供の自分には届かない存在。それでも、食の話題だと近くにいられると思った。
「だ、だから花妻先生」
「……さっきから、なんだよ」
「先生、相談しろって言ったよね」
「何がだよ」
「今から、俺と一緒にご飯、食べてください」
「訳が分からん。何言ってんだ」
「家、今日も誰もないから、俺、ご飯一人なんだもん。だから、付き合ってよ」
「だもんってなぁ、教えた通り、飯炊いて、おかず買って一人で食えばいいだろう」
「先生、子供が一人で食べるの、よくないと思わない?」
「それは」
「先生、待ってて! ご飯買ってくるから!」
「おい、待て!」
早く大人になりたいと思っていたのに、都合よく子供のふりをしていた。
それで花妻が健康になるなら、ちっともムカつかない。千秋は花妻のカップラーメンを奪って、そのまま家庭科準備室を走って出た。
* * *
走ってきたので、肩で息をしていた。
「はい、先生。ご飯買ってきた」
弁当が二つ入ったビニール袋を花妻の前に掲げる。
「あのなぁ、千秋」
千秋は学校の近くにある弁当屋で、肉野菜炒めの弁当を二人分買って戻ってきた。呆れながらも花妻は千秋に千円札を渡してくる。
その流れで財布を出してお釣りを返そうとすると受け取りを拒否された。
「先生、お腹空いてるんでしょう。早く食べよう」
「本当なぁ、何から、お前に教えたらいいんだろうなぁ」
花妻の呆れ声が重ねられる。
「肉野菜炒め弁当、ダメだった? 野菜嫌い?」
「嫌いじゃねーよ」
「じゃあ、とんかつ弁当の方がよかった?」
深い深い、ため息を吐きながらも、花妻は千秋の買ってきたお弁当を受け取ってくれた。
「メニューのことで怒っているんじゃない」
花妻はビニール袋の弁当を一つ取って、一つを千秋に返す。
「じゃあ、なんで怒ってるんですか」
「先生は、先生なんだよ。大人の自分が生徒に世話されて、なさけない気持ちになる」
「そんなの、関係ないよ」
「関係あんの」
「この前、俺に親切にしてくれたの嬉しかったし、それで……先生のこと、好きだって思ったから、だから、先生には健康でいて欲しい」
「あぁ、そう、ありがとな」
意を決して告白したつもりだったのに、花妻には軽く流されてしまった。
「あの……花妻先生」
「何、ここで食べていいよ。後ろの席使いな」
「あ、りがとうございます。先生も食べて」
「おー食うよ」
しぶしぶといった形で花妻は弁当の蓋を開けた。
花妻は机に向かって食べ、その背中を見ながら千秋も後ろのテーブルの前に椅子を置いて食べていた。
「ねぇ、先生、今日、授業のとき名前で怒ってたでしょう」
「昔からだよ、この名前で揶揄われてたの、千秋、なんか遊佐に言おうとしてたよな。別に放っておけばいいんだよ。怒るのは先生の仕事。生徒は生徒で仲良くしてくれ」
その声は少しトゲトゲしていた。そして、先生と生徒で線を引かれた。
最初から分かっていた。けれど線を引かれたのが悔しくて、さらに線を越えてしまう。
「あの、俺! 亜樹って名前の由来、知りたい。教えてください」
「それ、知ってどうすんの?」
振り返った花妻の顔を見て背筋が凍った。
それは教室で遊佐を叱ったのと同じ目だった。心底腹を立てている目。
「……好きな人の、ことならなんでも知りたいって、先生分からない、ですか」
「分からん」
ぴしゃりと拒絶された。
「だって、俺」
「あぁ、もう。黙っておこうと思ってたけど、千秋」
「はい」
「昼間ノートに書いてたことが、本気でも冗談でも、お前の気持ちは否定しない。それは、俺が先生だから、だ」
――花妻先生に好きになってもらうには。
先生は、ちゃんと読んでいた。
「先生、だから……か」
「そうです。弁当ありがとうな。食べたら、帰ってくれ」
冷たい声だった。昼間の遊佐と同じ、絞りだすようにして言葉を返していた。
「わかり、ました」
「俺がお前に優しくしたのは先生の仕事をしただけだ。あと、先生以外の部分は、俺の自由だよ。毎日カップ麺食べてても、生徒のお前には関係ない」
言われた瞬間、食べている弁当の味がわからなくなってしまった。
一方的な好意を伝えて、花妻を怒らせてしまったのだけは分かった。
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