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16の出会い
「お姉さん、本当に寮に入るの?」
「お姉さんがいなくなったら寂しいよ」
妹たちは風香に懐く素振りを見せていた。
「私も寂しいけど……」
風香は困った表情を作る。
「家から通えなくもないけど、バスを乗り継いで行かなきゃいけないし、早起きするのつらいから……」
自分たちを脅かさない無害な先住者は、彼女たちにとってさぞ楽だっただろう。けれどそれは風香の意志ではない。そう見せなければ、母と暮らせと父から迫られる――。それを回避するために被った仮面だ。
「風香ちゃんはその高校でどうしても学びたいことがあるんだって」
近くで聞いてた継母が助け舟を出してきた。
「将来のことを真剣に考えて決めたから応援してあげようね」
継母は風香の肩に触れながら姉妹を説得する。
「そうだね」
「わかった!」
「……」
風香はにこにこ、と唇を閉じたまま笑った。
――はっ、あっさり引き下がるなら引き留めるなよ
心の中で毒づきながら。
「お姉さん、頑張ってね!」
「応援するからね!」
「……」
姉妹に向かって皮肉を言えたらどんなに清々するだろうか。
本音を隠して、風香は「ありがとう」と口にした。
社交辞令しかない会話は不毛だが父に筒抜けであろうすべてに、この家を離れる瞬間までは気を抜くことはできなかった。
そうして入った高校の、とりわけ寮生活は想像以上に快適だった。
狭いながらも一人部屋が与えられていて、夢だった『ひとりの時間』を堪能できた。
友達もすぐに出来た。
特に同じ寮生で福祉学科の亜里紗とは気が合い、いくつかの選択科目を共にしようと意気投合するほどになった。
その科目の一つは音楽にした。一番人気のため抽選となったが運良くふたりとも受けることができた。
* *
「さすがに混んでるね!」
廊下で待ち合わせをしたせいか、ギリギリで音楽室に入った時には二つ続きの席は空いていなかった。
「うわー、あの辺、席詰めてくれないかなあ。どうする、頼んでみる?」
「うーん」
周りには風香たちと同じく、座ることができずに立っている生徒が数名いた。
「けど普通科の子たちだったらどうする? 入学早々目を付けられたら嫌だなあ」
「そうだよねえ」
高校に入ってほどなく、普通科の生徒たちが風香たちのような専門学科の生徒を蔑視していることに気づいた。その序列は代々続いているようで、総じて専門学科生は図書館や食堂、購買の利用を遠慮し、全校生徒が集まらなければならない体育館や校庭ですら小さくなって固まっているしかない状況だった。
「はあ、こんな校風だったなんて思いもしなかったよ」
亜里紗は嘆いていたが、風香にとっては問題にもならない悩みだった。
「あの人たちがいるところでおとなしくしてればいいだけじゃん。どうってことないって」
集会や選択教科を抜かせば、普通学科の生徒たちとは棟が違うため会わないよう行動することは簡単だ。そこまで苦痛に思うようなことでもなかった。
「風ちゃんってさあ、ほんと、精神力強いよねえ」
「そう?」
「“先輩からの洗礼”で泣かなかったのも風ちゃんだけだったじゃん」
亜里紗の言う洗礼とは寮での新入生歓迎会のことだった。
「ああ、あれね」
風香は曖昧に濁す。
いわゆるしごきを受けたのだが、先輩たちも伝統を引き継いでいるだけの、正直、言葉での攻撃も“生ぬるい”ものだった。暴力を振るわれたなら、風香もさすがに泣いたかもしれないが先輩たちもそこまではしない。
「――――こっち、空いてるよ」
壁際で亜里紗と困っていると、ひとりの男子に手招きされた。と同時に他の生徒に「ちょっと詰めてもらえる」と頼む声も聞こえた。
風香は亜里紗と顔を見合わせた。そろりそろりと、空けてもらった空席へ歩いていく。
「あ、ありがとう……」
親切な男子に礼を言った。
「どういたしまして」
綺麗な言葉が返ってきて風香はドキリとする。言葉遣いだけでなく所作や表情にも育ちの良さが表れていて見惚れてしまう。けれど胸の校章の色で彼が普通学科の生徒だと分かり、“友達になりたい”と思った気持ちが萎んでいった。
「風ちゃん、席に座れてよかったよね」
亜里紗が小声で言った。「うん」と風香も小声で返す。
密度の濃い音楽室で、楽しそうに笑っているのはほとんどが普通学科の生徒たちだ。所在なさげに周囲を窺っているのは自分たちも含め、専門学科の生徒たちだろう。
「どんな授業なんだろうね」
亜里紗が不安そうに聞いてきたのは、誰かが『去年はグループに分かれて発表会があった』と話しているのを耳が拾ったからに他ならない。
「寮の先輩たちは、ほぼ『音楽鑑賞』だって言ってたよね……?」
「言ってたね」
風香も亜里紗も、授業は“音楽を聴くだけ”という前情報で選んだ教科だ。
「まさか普通学科の子たちと組まされたりしないよね?」
よほど心配なのか、亜里紗は風香の腕にしがみついて耳元に言った。
「祈ろう!」
風香は亜里紗を宥めるためだけに両手を組んで天井を見上げた。
「――あはっ」
「!」
隣から笑い声が聞こえ、風香は向き直った。席を空けてくれた男子だった。「笑ってごめん」と爽やかに言われ、「う、ううん、大丈夫……」と挙動不審気味に返した。
「たぶん、発表会っていうのは文化祭用だと思うよ。選ばれた生徒が合唱か演奏か、なにかするって話のはず」
「全員じゃなくて?」
「うん、全員じゃない」
風香の腕に両手を回したままで会話を聞いていた亜里紗が「よかったあ」と安堵の声を上げた。
「そんなに嫌なんだね」
可笑しそうに笑う笑顔に見惚れ――、風香は慌てて目を逸らした。
「あのっ、私は山本亜里紗。この子は、森尾風香。よろしくね」
亜里紗が前のめりで自己紹介をして、風香も小さく会釈した。口を開いたら騒がしい胸の鼓動が声に乗ってしまいそうだった。
「僕は雨宮――」
言い終えないうちに音楽室のドアが開いて担当教師が入ってきた。皆が私語を止める中、風香は聞き取れなかった彼の名前を尋ねようと口を開きかけ、亜里紗に促されて我に返り、名残惜しい気持ちで正面を向いた。
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