愛を失う数時間前~プロローグ~

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愛を失う数時間前~プロローグ~

 お疲れ様でーす、と言いながら女子更衣室のドアを開け勤務先のファミレスに出勤した風香(ふうか)は、そこに今日はいるはずのない同僚が着替えているのを見て頭の中に「?」を浮かべた。 「由真(ゆま)ちゃん、今日出番になったの?」  深夜早朝の営業枠は出勤するメンツが曜日ごとに決まっている。木曜日は真由で、水曜日は風香。 「え~?」  風香の言葉に顔を向けた由真が時間差で真顔になった。 「あれっ、なんで風ちゃん来たの、今日木曜日じゃ……」 「今日は水曜日だよ」 「うそっ!」  由真はスマホを開いて日付を確認し「ほんとだ……」と泣きそうな声を上げた。 「やっちゃったあ、せっかく来たのにぃ」  へなへなと目の前のベンチに座り込む。 「ははは……」  笑うしかないのだが、確かに、休みの日に職場へ来てしまったらへこむ。しかも由真の家は店からは少し遠い。 「ここまで着替えたのにぃ」  由真はファミレスの制服であるワンピースにエプロン、首元にはスカーフ、そしてロゴの入った髪留めも付けていて、あとは指定のパンプスを履くだけだ。一方の風香はもこもこのジャケットに手袋、マフラー、足元はロングブーツ。 「風ちゃん、今日と明日交換して――って言ったらダメ?」 「……ダメじゃないけど」 「あとで駅前に出来たカフェでスイーツ奢るから!」  必死に拝む由真に、風香は折れた。 「わかったよ。奢らなくていいけど一緒に行って?」  せっかく準備し出勤したのは自分も同じだが、風香はまだ着替えていなかったし、家と店は徒歩で十分ちょっとの距離だ。由真よりはここで引き返してもダメージが少ない。 「ほんとに、いいの? 大丈夫?」 「うん、明日と交換ね」  風香より一つ年下だが、これまでなにかと協力し合って過ごしてきた仲だった。滅多にないようなミスだし、こんなときぐらい助けてあげてもいいかな、とも思った。 「風ちゃーん」  抱きつかれ、その背中をとんとんと叩く。 「じゃあ今日は頼んだよ」  由真をホールへ送り出す。 「うん、ごめん、ほんと、恩に着る。風ちゃん大好き!」  手を振り合って別れ、ひとり残されて脱力した。 「じゃあ、私も帰ろ……」  わざと口に出し、気まずさを逃がして職場を後にした。  通りへ出ると冷たい強風が肌を刺した。マフラーで口元まですっぽりと隠し歩き出し、通り沿いにあるコーヒーショップで足を止めた。  午後九時半。ぽっかり空いてしまった時間に図らずも余裕をみつける。だが同時に、家を出る前に夫が“眠気覚まし”にコーヒーを淹れてくれたことも思い出す。    ――まあいいか、別のもの飲めばいいもんね。  気持ちを切り替えて、風香は空いている店内へ足を踏み入れた。  閉店時間まで三十分。あまり時間はないがコーヒーの香り漂う空間に身を置くことはいつの間にか風香の日常になっていた。  風香には夢がなかった。  高校では縫製やデザインを学んだが、卒業後にそれを極めたいとは思わなかった。就職先はたいして悩まず縫製工場に決めた。高校と同じに、その会社にも社員寮があったことも理由の一つだった。付き合っていた恋人の未知留(みちる)は大学へ進学する。きっと遅かれ早かれ環境の違いから別れることになるだろう、そう思っていたから。けれどプロポーズされた。  小さなカフェを開くのが未知留の夢と聞き、力になりたいと結婚後は職場をファミレスへと変えた。アルバイト先をみつけてきたのは未知留だった。  大手飲食店のノウハウを学んでほしいし、将来のために資金はあればあるだけいい――、そう言われ正社員を目指すことにした。その条件のひとつに、社員は男女関係なく深夜帯の勤務を経験する項目があった。    未知留と出会ったのは、高校に入学してすぐの頃だ。  特別美人でもなく勉強も中くらい、運動神経も普通……、風香の自分への評価は物心付く頃から変わらず『平凡』だった。だから容姿にも頭脳にも恵まれ、なんでもこなせてしまう器用な未知留が自分を選ぶなんて夢としか思えなかった。未知留に告白された時の動揺は想像を超えていた。 「なぜ私なの?」  風香は恐れながら聞いた。――だって私じゃ、君に釣り合わないよ。 「風香が家族にされて悔しかったこと、悲しかったこと、共有できるのは僕だけだと思う。僕は風香を守ってあげたいんだ」 「……」  これまで誰にも言われたことのない言葉は、あの頃の風香の希望になった。  ふたりの間には常に“家族”というキーワードが横たわっていた。プロポーズされたときもそうだった。 「家族に恵まれなかった風香とだったら、うまくやっていけると思うんだ」  お互いにとって『家族』とは当たり前に存在するものではなく、そのせいか憧れも強かったように思う。 「はどうするの?」  結婚にあたって未知留の妹、花音(かのん)のことを話さないわけにはいかなかった。 「そうだね、あの子はあの家から出たことがないからね……」  未知留の家庭も複雑だった。由緒ある旧家だったが、今は引きこもりの妹とふたりで暮らしている。 「風香がうちに入ってくれると助かるんだけど」  未知留は風香の顔色を窺うような素振りを見せたが、それ以外の方法がないことは明らかだった。 「私は別に、いいけど……」  本心では新婚生活ぐらいは別の場所で、ふたりきりで過ごしてみたかったし、未知留が妹とふたりで住んでいる白く大きな洋館は、古いせいかどことなく陰気な雰囲気が漂っていて、口に出したことはなかったが少し苦手に感じていた。   「のんちゃんが、私があの家に入ること、嫌がらないかなあ」  風香は、自分の気持ちに“気付いてほしい”と願いながら、精一杯の消極的不満を口にした。だが未知留は穏やかな笑顔の中に頑とした意思を持って言った。 「それは大丈夫。のんも望んでることだから」 「へえ」  プロポーズをされる前にすでに妹と話し合いが終わっていることに違和感を覚えつつも、兄妹とはそういうものなのかもしれないと、これまでも事あるごとに妹を優先してきた未知留に、今更失望するには遅すぎた。 「あの子にとっては自分の部屋だけが安心できる場所だから、それを取り上げることはできないよ」  ……だったら、私たちが別の場所で暮らすという選択肢はないの?  風香は心の中で不満を吐く。だが一方で、自分には守ってくれる兄弟姉妹がいない、そのせいで妬みの感情が生まれてしまうんだろうと自分を恥じてもいた。       *   *    「ただいま」  玄関ドアに鍵を差し込み開けようとしたらチェーンが掛かっていた。  
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