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鞄の底に悩みを残したまま時は過ぎ、気づけば太陽はその熱を下げ、青い空は透明度を増していた。流風はゆっくりと深呼吸しながら天を仰いだ。ここは無機質な都会のど真ん中に位置するマンションだが、最上階の部屋であるため空が近い。以前住んでいた部屋よりもずっと。
あれは小学校の卒業式の夜だった。幼い頃、一人ぼっちだった流風を引き取ってくれた伯父、片瀬慎吾による引っ越し宣言。突然のことに流風は首をかしげた。
ともに暮らしていたマンションはきれいで立地もよく、これといった不便も見当たらず、入学する予定の中学校が遠いわけでもない。そもそも流風は、常に車で送迎されている。すると慎吾がこういったのだ。
「まあ、なんつーの。あれだ。ここは息苦しいからよ」
息苦しさとは無縁の広さがあるはずなのにと、流風はさらに首をかしげたが、引っ越し先のマンションでその言葉の意味を知った。
それは、ずっと住んでいた部屋にはなかったもの。いや、ないわけではなかったが、細長くて狭くて、コンクリートで囲われただけの無機質な場所だった。
慎吾に「出てみろよ」といわれて、おずおずと足を踏み出したその場所は、最上階だけに併設されているという大きなテラス。
「わあ」
流風は思わず歓声をあげた。空が近い。風が優しい。広々としたテラスでは、所々に植栽された緑が枝を伸ばし、優しい風によってさわさわと音を立てている。その風は優しくもどこまでも透明な無垢さで、流風に寄り添ってはゆるりと流れて消えていく。地上から遠い場所で吹く風は、同時に人間の発する邪気からも遠く、その風はなにものにも染まっていなかった。それは人間がひしめき合う世界では、めったに感じることができないもの。流風にとっては貴重で大事なもの。
「どうやら正解だったみたいだな」
慎吾の言葉に流風は目をまたたいた。
「おまえは風を通じて人間の悪意を感じやすいし、体調を崩すこともある。けど、ここ東京には腐るほど人間がいて、まじで腐ってる人間も少なくねえ。仮に東京から離れたところで、それがゼロになるわけでもない。なにかいい手はねえかって、ずっと考えてた。おまえが少しでも楽になるように」
慎吾は流風の風下に立つと、おもむろにタバコをくわえる。じりっと赤く熱をもったタバコの香りが微かにふわりと広がった。慎吾はいつも煙や匂いに気を配ってくれるが、流風はタバコをいやだと思ったことは一度もない。それは慎吾の香りでもあるからだ。
「で、気づいたわけだ。人間は基本的に地上にいる。なら、できるだけ地上から離れてみたらいいんじゃないかってな。まあ、そこに気づいたのはあいつなんだけどよ? で、一番手っ取り早くて効果的なのが住む場所だろってことで、今回の引っ越しってわけだ。どうだ、ここの風は」
「うん。ここは優しい。息、いっぱい吸える」
「そりゃよかった」
大きな手でくしゃりと頭をなでられ、流風はへにょりと笑った。
「しーちゃん、ありがと」
「おう」
「れいちゃんにもお礼、いいたい」
慎吾のいう「あいつ」とは、玲華のことだと流風は知っている。玲華は流風の特性を受け入れてくれている理解者の一人で、紗那や里香とも交流がある。
「ああ、そうしてやってくれ。今日は向こうも落ち着かねえだろうから、明日あたり行ってみるか」
「落ち着かない?どうして?」
「向こうも引っ越しだからな」
「れいちゃんも?」
「ああ」
「そうなんだ」
流風はわずかにしょんぼりした。玲華のマンションには何度か遊びに行ったことがある。お洒落でいい匂いがして、次に行ける日を楽しみにしていたのだ。
「引っ越しのおうち、遠い?」
その質問には答えず、にやりと笑った慎吾。答えは翌日に持ち越されたが、笑いの理由が判明したときの嬉しさは、5年たったいまも思い出せるほど。
流風は空を見上げなから目を細めた。朝一番のテラスは、5年前から変わらぬルーティンの一つ。すっかり秋めいてきた空には定番の雲。
「今日はひつじだ。ふわふわ飛んでて可愛い」
「羊?おまえ、寝ぼけすぎだろ。羊は空を飛ばねえって、小学校で習わなかったのかよ」
背後からくくくと笑う男の声が響き、流風はむっとした顔で振り返った。
「寝ぼけてないもん。ひつじって、その羊じゃないから。ひつじ雲のことだから。だいたい羊が空を飛ばないことぐらい知ってるから。っていうか、習わないよ、そんなこと」
「ほんとかよ」
タバコをくわえておかしそうに笑う男は、流風の伯父である慎吾。出会った頃、赤く染められていた髪は黒くなり、柄の悪さは少しましになったが、厳つい風情は変わらない。
「ほんとだもん」
流風はむうと頬をふくらませたまま、テラスからリビングへ戻ろうとしたところで振り返った。
「そういえば、しーちゃん。今日はずいぶん早いんだね?まだ7時半だよ?」
「ああ、あいつ今日、日勤なんだよ。で、朝早くから叩き起こされて、飯を食わされた。ザ、和食ってやつ」
だるそうにタバコの煙を吐き出す慎吾に流風は笑った。
「さすが玲ちゃん。看護師さんだけあって、栄養も考えてくれてるね。感謝しないとだよ。ねえ、しーちゃん。前からいってることだけど、一緒に住んだらいいのに。私はべつに平気だよ?」
「あー、それな。おまえの気持ちはありがたいが、おまえが嫁に行くまでは、このままでいいっつーか、あいつもそういってるし。まあ、あれだ。ケジメだケジメ」
真面目な顔で一人頷いている慎吾に流風は呆れた。
「ケジメって、週の半分以上、朝帰りしてる人がいう台詞じゃないと思うけど」
「アホか。これは朝帰りじゃねえ。同じ屋根の下にいる以上、部屋から部屋への移動だ」
どんな理屈なのか。けど、同じ屋根の下というのは事実なわけで、部屋から部屋の移動という表現も100パーセント間違いというわけでもない。
そう、5年前に玲華が引っ越した先はこのマンション内。流風の住む最上階より3つ下。数分で辿り着いてしまう距離に、当時の流風は飛び上がって喜んだものだ。
「そういうの、屁理屈っていうんだよ」
「そうかよ」
じろりと睨んでも、どこ吹く風の慎吾。いつものことだ。流風は肩をすくめてリビングへ入ったところでそれに気づき、慌てて踵を返した。
「どうした」
大きな窓に手をかけて顔を出した流風に慎吾が片眉を上げる。
「忘れてた。しーちゃん、おはよう」
いまごろの挨拶に慎吾は苦笑する。
「ああ、おはようさん」
「それでね、いちおう訊くけど、コーヒー、飲む?」
「そりゃもちろん。コーヒーはここでって決めてるしな」
迷うことのない慎吾の即答に流風ははにかんだ。毎朝、ハンドドリップでコーヒーを入れることもルーティンの一つ。望まなければ行わない作業であるが、慎吾はいつだって望んでくれる。
「そっか。そうだよね。いま入れるね」
ついついスキップするような足取りでキッチンに向かってしまうのは仕方ない。玲華のことは好きだ。一緒に住めばいいと思っているのも本心だ。けどそれは、こんなふうに慎吾が流風の存在を尊重してくれるからこそだと思っている。けれども、それが当たり前だとも思っていない。だから、嬉しくなってしまうのは仕方がないのだ。
「今日は豆から挽こうかな」
柔らかな朝。楽しげな流風の背中を見守る慎吾の優しい眼差しは、今日も変わることなく、そこにあった。
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