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 豆を挽くときは手動のコーヒーミルを使う。素人でも均一に挽けるという、プロお墨付きのミルは、欽二が専門店で購入してきてくれた。合わせて揃えたドリッパーにフィルターをセットし、専用のドリップポットで細く湯を注いでいく。丁寧に丁寧に。コーヒーの香りが広がっていくごとに気持ちもゆるむ。流風は笑んだ。  慎吾はブラック。流風はミルクをたっぷり入れたカフェオレ。もともとコーヒーは好まない流風だが、この朝の一杯だけは特別なのだ。それに、ときおり使う厳選された豆なら流風でも美味しいと感じる。そして今日は、その厳選された豆を使った。 「うまいじゃねえか。くそ」  キッチンカウンターの向こうで、褒めながらも悪態をつく慎吾に流風は首をかしげた。 「美味しいのに、なんで怒ってるの?」 「ああ?なんでだ?」  慎吾がコーヒーカップ越しに流風をじとりと睨んだ。 「このコーヒー豆、専門店のもんじゃねえだろ。味が違う。おまえ、また鳥野郎のところに行ったな」 「鳥野郎って、またそんな言い方」 「カラスは鳥だろうが。で、行ったんだな?」 「カラスじゃなくて唐須さんでしょ。シグナルなら行ったよ。夏休みの終わりにブラックウィングに行ったでしょ?その帰りに雄くんと。しーちゃん好みの豆が手に入ったって連絡もらってたから」  コーヒー専門店シグナルは、美味しいコーヒー豆を探していたとき、一鷹から教えてもらったお店だ。店主である唐須は、市場に出回ることのない特別な豆を快く流風に売ってくれている。当初は代金を受け取ってもらえなかったが、流風の粘りの成果か、最近ようやくお金を受け取ってくれるようになった。ただしワンコインだが。けど唐須は、500円貯金しているから助かると笑う。それは明らかな嘘。優しい嘘。唐須から吹く風がそうだと告げていて、だから流風も甘えてしまっている。 「連絡もらうとか、カラスとメル友って、どういうことだよ。元凶は蓮杖にしても、おかしいだろ。なんでツーカーになってんだ。そもそも、なんで流風にしか売らねえんだよ、あのカラスは。欽二に売っとけよ」  そうなのだ。唐須は流風本人の来店がなければ豆を差し出さない。頼まれたという体でも頷かない。それが彼の主義なのだろうと、流風はとくに思うところはないが、慎吾は気に入らないらしい。いや、唐須という存在が気に入らないらしい。いちおう昔からの知り合いらしく、知っているからこそ文句が出るのか。まあでも、いつものことだ。 「メル友って、いまはそんな言葉、使わないよ」 「そうかよ。くそ、なんだこれ。うまいっつーの」  そういいながら、空になったカップを差し出す慎吾に流風は笑いを堪えた。お代わりの合図だ。なんだかんだと文句をつけつつ、シグナルへの出入りを禁止しないのは、コーヒーの美味しさに負けているからだろう。カップに残りのコーヒーを注いでいると、慎吾がカウンター越しに身を乗り出してきた。 「で?あいつはいたのか?」  文句とともにこの質問もいつものことで、毎回なぜ訊いてくるのか、流風は不思議でならない。 「うん、いたよ。常連さんだし」  慎吾がなんともいえない顔でため息をつく。まあこれも、いつものことだ。 「常連って、それこそ、おかしいだろ。どんだけ暇なんだよ、あいつは」 「暇ではないみたいだよ?でも、シグナルのコーヒーが好きだから、1日1回はお店に来たいんだって。唐須さんが、仕方のない人ですねって笑ってたから、忙しい人なんだと思うけど」 「けど、おまえとのおしゃべりには付き合ってくれるわけだ」 「そうだね」  流風はちょっと笑った。シグナルの店主である唐須も謎めいているが、常連であるその人は、もっと謎めいていて、一般人とは言い難い空気をまとっている。異質、異彩、そして畏怖。そんな言葉が浮かぶ人。だからだろうか、初めて会ったはずなのに既視感をおぼえた。どこか他人ではないような感覚。すると、その人が微笑んだ。 「私たちは同じことを思っているようですね」  そして流風が驚くべきことを口にしたのだ。 「私と貴女は、どうやら風の波長が同じようだ。ああ、突然おかしなことをいって申し訳ありません。幼きころより風とともにあったゆえ、ついそのような表現に。けれども貴女ならきっと、説明はいらないはず」  そのときの流風は驚きのあまり、口をぽかんと開けていたと思う。その人がおかしそうに笑ったから。でも仕方ないと思う。いままで、そんな人は現れなかった。聞いたこともなかった。もはや、この世に存在しないとさえ思っていた。自分以外は。  けど、目の前のその人から吹く風は真実で、流風は驚きとともに泣きたいほどの安堵も感じたのだ。この人の前では自分を隠さなくてもいいのだと。それは信頼できる人間とは、まったく違う安らぎ。  それ以来、シグナルに行くたび顔を合わせるその常連さんとは、いまやすっかり気心の知れた仲。その人とおしゃべりしてる時間は楽しく、ときおり悩みも打ち明けたりして秘密を共有したり。心を許している自覚はあるが、その人との関係を訊かれると返答に困る。知り合いというには他人すぎるし、友人という言葉も当てはまらない。そして信頼する紗那や慎吾、陸たちともどこか違う。あえていうなら。 「同士って感じ?」 「同士?」  カウンターの向こうから慎吾の怪訝な視線が飛んできて、流風は思わず肩をすくめて笑った。考えていることを独り言のように口にしてしまうのは、ここが安全な場所だから。 「あのね、(しゅん)さんのこと。私たちって、どういう関係なのかなって考えてたの。そしたらね、その言葉が浮かんで、つい口にしちゃった」 「…………舜、さん」  たっぷり3分黙ったあと、呻くように目を閉じる慎吾。これもわりとよく見る光景だ。毎回毎回、いったいなにを悩んでいるのかは不明なので、流風は放っておくことにしている。 「舜玲さんだから、舜さんなんだけど」  それは常連であるその人の名前で、最初は舜玲さんと呼んでいたが、いつの間にか舜さんになっていた。 「……知ってる」 「だよね」  流風はカフェオレを飲み干すと、時計を確認する。思ったよりも時間が過ぎていた。すでに地下駐車場では欽二が待っているだろう。 「もう行かないと。しーちゃん、カップ洗っておいてね」 「……おう」  慌ただしく学校の鞄を片手に振り返ると、慎吾はカウンターにもたれて黄昏れている。 「食洗機じゃなくて手洗いしてね?そのカップ、お気に入りだから」 「へいへい」  気の抜けた返事だが、きちんと洗ってくれることを知っている。流風はくすりと笑いながら、行ってきますと挨拶をして玄関を開けた。その背後で慎吾が梶山に「(よう)舜玲(しゅんれい)を日本から追い出してくれ」と泣きつくも、「無理」という一言で一刀両断されていたことなどつゆ知らず、流風は軽い足取りで学校へ向かった。
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